――ダメ男小説愛が深い渋谷さんが、もしダメ男小説ベストを選ぶとしたら?
渋谷 やっぱり、思い入れが強いというのもありますけど、オールタイムベストワンは『ぼくのともだち』ですね。自分が翻訳したもの以外であれば、ピエール・ルイスの
『女と人形』とか。『母の家で過ごした三日間』の中でちらっと言及されているんですけれども、『カルメン』を下敷きにしたような作品です。密会の場所へ急ぐ青年に、相手の女と過去に付き合っていた紳士が、愛欲の奴隷になった自分の体験を語る。ファム・ファタールもののダメ男小説の中でも、手玉にとられた男の心情が見事に描かれてると思います。
その系統でいうと、アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』もおもしろいですね。日本における『マノン・レスコー』の受容を研究していた学生がいたので、いろんな訳を読み比べたことがあります。青柳瑞穂さんの訳がいいんです。純情な騎士デ・グリュが、娼婦のマノンに惚れて一緒に暮らし始めるんだけど、マノンはどこかへ行ってしまう。で、デ・グリュは、キリスト教の坊さんになって、もうマノンのことは忘れて神に仕える道を進むもうと決意する。ところが、再びマノンがあらわれる。そこでデ・グリュがマノンに恨み言をいうシーンがあるんです。他の訳は、ああ、不実なマノン、という感じなんですけど、青柳さんの訳だけ、〈マノンのうそつき!ああ! うそつきめ! うそつきめ!〉となっている。
うそつきなんていった時点で、もうマノンに負けているだろうと。その一言に、愛欲に引きずられるダメ男っぷりが出ている。翻訳するときに、こういう言葉がパッと出てくる反射神経を自分も身につけたいなと。あとは、フランス文学じゃなくてもいいですか?
――もちろんです。
渋谷 安岡章太郎の『私説聊斎志異』とか好きですね。『聊斎志異』の作者、蒲松齢は、19歳から51歳まで、科挙試験を受けて、落第し続けた。安岡章太郎も三年間、受験浪人をしていたことがあって、親近感を抱いて、蒲松齢の一生を追っていきます。人間がよく描かれているし、文章に非常にユーモアがあって、しかもあざとくないんです。
武林無想庵の『「Cocu」のなげき』もおもしろい。無想庵は、芥川龍之介を驚嘆させた程の博学多識にして、希代の生活無能力男です。第一次大戦後、妻を連れて渡仏したものの、慣れない異国暮らしでその生活無能力ぶりに拍車がかかり、やがて妻に裏切られてしまいます。で、無想庵は失意の内にコキュ(妻を寝取られた男)の登場する自伝的小説を書くんです。正直なところ小説としては大した作品じゃないと思うんだけれども、内容もインテリぶった文章も全部ひっくるめて、ダメさを醸しだしています。
1929年の暮れにフランスへ渡って、無想庵にも会っている金子光晴の『ねむれ巴里』も、広い意味でダメ男小説といえるかもしれません。晩年になって、二年間のヨーロッパ滞在を振り返った自伝です。やっぱり「コキュの嘆き」を託つ男の貧乏生活が綴られているんですけれども、ちょっと悟りすましているようなところもありますね。金子光晴のことは自分の研究テーマにもしていて、もっと事実を調べて、ダメっぽさを暴きだそうと思っています。
それから、田山花袋の『蒲団』の主人公も、いい感じのダメ男ですね。他に何か大きいものを忘れてないかな……そうそう、話は飛びますけど、ボーヴってドストエフスキーが大好きだったんですよ。『罪と罰』の主人公を踏まえて『あるラスコーリニコフ』(※)という小説も書いているくらい。
――なんとなく意外な感じがしますが。
渋谷 ドストエフスキーの
『地下室の手記』はテーマが重すぎてダメ男小説とは呼びにくいんですけれども、もし、本気でボーヴの系譜をさかのぼったとしたら、その辺りから来ているような気がします。父親はロシア出身ですしね。
ボーヴって、読書に関しては、わりと正統派なんですよ。プルーストとか、バルザックとか、ドストエフスキーとか、ディケンズとかを読んでいる。言い方を変えると、ボーヴの趣味を探っても、おもしろい忘れられた作家が見つかるということはなさそうです。
――そういえばプルーストはボーヴと同時代に活躍していますね。
渋谷 プルーストのことは尊敬していたみたいです。ボーヴは「貧乏人のプルースト」と呼ばれていたこともあります。
――『失われた時を求めて』の主人公も、ダメ男といえばダメ男じゃないですか?
渋谷 そうですね。『失われた時を求めて』に限らず、ダメな人が主人公の小説は多いんですけど、そのダメっぷりを主題にして、かつ、カリカチュアになってしまわないように仕上げるのは、けっこう難しいことだと思います。『ぼくのともだち』は、その難しいことに成功している作品の一つなんじゃないかな。俺ってダメでしょう、とアピールしていない。
ヴィクトール・バトンは、自分のダメっぷりに気づいていません。ツッコミが不在なんです。「おまえダメじゃん」と言ってくれる人が作品に出てこない。読者がツッコミを入れるほかないという。