従来『性同一性障害の社会学』といった論考集や『女が少年だったころ』シリーズのような自伝的ノンフィクションを著してきた作者――自身がセクシュアルマイノリティ――の、初の小説。ということで、いくつかのポイントをチェックしてみた。
まずはセクシュアルマイノリティの描写。
後半では「性同一性障害をホームルームでカミングアウト」する生徒が登場し、彼女……否、彼には重要な役回りもあてがわれている。また、同性愛者やバイセクシュアルを思わせる描写も、ごく自然におこなわれている。ことに巻末のサイドストーリーは、確信犯的に百合百合しいと言ってもよいだろう。
その一方で、主人公は明らかな性同一性障害ではなく、男ジェンダーに割り振られた性別役割に違和感を抱きつつも、異性愛主義的世界の規範にとらわれ、その中での性の欲望にも苛まれる過程が、物語のひとつの縦糸になっている。知識のある読者には、そのあたりがもどかしく感じられることもあるかもしれないが、おそらくは作者の意図は、主人公と同程度の認識にある人々に対して、そうしたジェンダーやセクシュアリティにかかわる社会秩序が、じつは個々人を抑圧している様を描いて見せることにあったのだろう。
そのうえで、作者のセクシュアルマイノリティとしての実体験が、どのように作品に反映されているのかを見ると、作者は小説はすべてフィクションと言っているし、また本当に実話が元になっているとしたら、いささかモンダイな点もいくつかあるだろう。
そのあたりは、読者の解釈によるしかないのだろうが、むしろ物語の横糸的に挿まれる教育問題・社会問題のほうに、作者自身が女子高の講師をしていた当時の思いが滲んでいるのかもしれない。
そして、これらをふまえて、作者の社会学的見識がきちんと生かされているかどうかを再確認すると、そこはさすが、ホモソーシャルな社会構造などが、やはり批判的に意識されている。恋愛のモノガミー規範の持つ問題点も、いわば最重要課題に据えられている。
しかも小難しい学術書は手にしないような読者にも、感覚的に理解できるように工夫されているので、本として敷居が高いこともない。
作劇的には、クライマックスの展開はやや強引かもしれないが。
以上、まとめると、一見よくある高校教師モノに見えなくもないこの本は、じつは自分の居場所に苦しむすべての人へ向けて書かれた、性別二元的異性愛主義からの解放に救いをフォーカスさせた小説なのだと言えるのではないだろうか。