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太陽を曳く馬【読者投稿ブックレビュー】

「太陽を曳く馬」:「歴史」を突き抜けた場からの存在論

高村薫
新潮社

伊奈浜左記さんのおすすめブックレビュー
2009年08月13日掲載

「太陽を曳く馬」は二つの事件を扱う。一つは、二人の人間が玄翁で撲殺された事件。もう一つは一人の僧侶の交通事故死。しかし、この二つの事件の背後には、巨大な認識論的空虚の穴が空いている。なぜ、福澤秋道は二人の人間を玄翁で打ち殺したのか。なぜ、僧侶は走るトラックの前に飛び出したのか。高村薫がこの小説において、この二つの事件を立てて追求するのは、「歴史の終わり」の向こう側に突き抜けてしまったかに見えるこの国・この社会における「存在論」と「認識論」のありようだ。

この小説を貫く一本の軸として立てられるのが道元と曹洞宗だ。六本木にある一つの寺院に設けられたサンガの3人の僧侶と福澤彰之、長谷川明円の壮絶な対話から改めて了解されるのは、人間にとって存在論と認識論がいかに根底的な課題であり続けてきたか、この課題が投げかける謎の隘路にそって、どれだけ多くの知の体系が、別々に積み上げられてきたかということだ。ある意味、この小説は仏教がこの課題にいかに挑戦してきたかを、西洋哲学もしくはイスラーム哲学の認識を少しかじったことのある者にとって親和的な形で開示する絶好の入門書であるともいえる。この小説の最後に登場する死んだ僧侶・末永と長谷川明円の対話:私と世界の存在をめぐる論理の流れは、イスラーム哲学におけるタウヒード(=存在の「一」性)と、これを体感するために数々の手法を生み出したスーフィズムの挑戦に酷似する。

「歴史の終わり」の向こう側にある現代、この国の社会では、ありとあらゆるエンターテイメントと情報の奔流が、人間を包み込んでいる:存在論と認識論の問いの迷路からなんとしても人間を遠ざけておくために。根源的な問いに直面しないで済ませるための思考回路が、システムとして用意されている。しかし、人間は皆最終的にはそこに直面せざるを得ない。そのとき、「歴史の終わり」の向こう側に出てしまったわれわれには、何の準備もない。それは当然のこと、我々が必死になって量産し続けているあらゆる情報は、最後までその問いを回避し続けることを絶対目標としているのだから。

現代の日本において、その欺瞞の体系から零れ落ち、否応なくそれに直面してしまった一群の者たちが、それなりの必死さで手当たりしだいに答えに見えるものを集め体系化したもの。その最も先鋭的なありようが、麻原彰晃とオウム真理教であった。高村は曹洞宗の僧侶5名をして、この体系と対決させる。下巻の半分近くを占める僧侶たちとオウム真理教の幻影との総力戦は、読むものの神経を参らせる壮絶さだ。この論争が、一人の僧侶の死の伏線として表れてくる、この緊張感から、日本の戦後文学に刻印されるもう一冊の偉大な観念小説、埴谷雄高の「死霊」が必然的に連想される。「死霊」が未完に終わったのと同様、この小説にも、答えはない。ただ、「私」を滅却して歩き続ける福澤彰之の像が、彼が死刑を待つ秋道に向かって書き送った一群の書簡とともに提示されるだけだ。 ならば、福澤彰之のように歩き続けるしかない。

最後にこれだけは言っておく必要があろう。「太陽を曳く馬」は、この現代の日本において、ほとんど奇跡のような、驚くべき偉大な文学的達成である。

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