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甘いオムレツ 小椋佳の父と母の物語【読者投稿ブックレビュー】

物語と歌(詩)

山根三奈
メディアファクトリー

おおつか 遊さんのおすすめブックレビュー
2009年09月19日掲載

ついこの間まで、近くの桜、銀杏、楠などの樹々に蝉が貼り付き、鳴きの礫を四方八方へ飛ばしていたのに、既に大合唱の季節は終焉。それでも、微かに鳴き声が聞こえる時がある。地中暮らしの長い蝉の幼虫がうっかり地上に這い出し孵化してしまい、最後の今を必死に鳴き続けているのだろう。音を奏でる虫の世界は、すでに蝉からコオロギへと空中戦から地上戦に移行しているというのに。まさにギリギリの選択と命の証しと考えれば、真夏のそれより一層濃く哀しく響く。

この季節の端境期、給与生活者として、朝、都心の職場へ通うため、最寄りの駅へと向かう。こうした時間の流れに乗って早や20数年。あとどれぐらい繰り返されるであろうかと考えつつ、電車の吊革にぶら下り車窓から眺める街の風景も、そこに住まう人も少しずつ年月を重ね、入れ替わっている。「変容」という言葉が相応しいかもしれない。ほどなく小高い丘陵地帯に、物言わぬ墓石群が張り付いた霊園が目に付く。時折、真新しい墓石が目に付くぐらいの変化はあるが、この世に比べれば慎ましい地味なもの。つい最近、近くの古いJR宿舎が地上125m37階建のタワー型マンションに変身、この世の激しい変化を示す身近な象徴でもある。これまでこの列車の利用者の中には、あの丘陵地帯の霊園に座席を移し、生前の様々な物語を秘めて安らかに眠っている人も少なくないかもしれない。

このような想いの果て、ようやく週末の休日に辿り着いた土曜日の昼下がり。住まいのマンションのサロンでオペラ歌手(バリトン)による「千の風になって」「オー・ソーレ・ミーオ」など歌声が響く。マンションのイベントの一コマ。ガラスの大窓越しに群青色の空が拡がっているが、かなり風が強く樹々が激しく揺れ動く。バリトンの抑揚と樹々の揺れとが奇妙に符合している。生演奏と生歌の迫力を味わいつつ、オペラの背景としてこの風景はかなりイケてると、ささやかな感動を覚える時の切れ端。物語とは、ささやかな時の切れ端の集積と濃縮の上に成り立つものだと思う。

さて、本書は、Singer- Song-Writer小椋佳の両親の物語であり、小椋氏の弟から母の物語を書いてほしいと依頼を受けた著者が関係者に取材の末、書き上げたという。ある意味、本書は市井の平凡な人々の暮らしの中にこそ、ささやかであるがしっかりとした感動と喜怒哀楽があることを示してもいる。

昭和15年は紀元二千六百年祭。この年の式典前夜、小椋佳の父、神田今之助は、妻に逃げられ一人で飲み屋を切り盛りしている中、露天商の元締めの娘トク(母)と出会う。この出会いが幸運をもたらす。空襲で焼け落ちた「千葉屋」を、戦後「千代香」(料亭)へと再建させていく。従業員の先頭に立ち、取り仕切るトク。会計経理を受け持ち経営者として算盤勘定に専念する今之助。似合いの割れ鍋に綴じ蓋を地で行く歩みともなる。また、トクは、事あるごとに、砂糖を入れた甘いオムレツを作り家族やお客を幸せな気分にさせていく。読後に、小椋佳の「甘いオムレツ」という歌を聴く。物語を一気に読み終えた直後だけに、歌(詩)に込められた氏の母への思いがしみじみと伝わってくる。読書の秋を迎え、是非、本書とこの歌(詩)を味わってはと思う。

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