ただただすごいなと、恐れいる生きざまというものがある。いや、恐れ入るというよりは圧倒される、が近いかな。
「美は乱調にあり」――あら、カッコイイ!とタイトルに惹かれて手に取った本書は、もちろん瀬戸内晴美の作品だからという理由もあったが、いやあ……読後はあわててもちを食べて喉に詰まらせてしまったかのような息苦しさと密着感に満ち満ちていて、あんまりにも重々しい主人公・伊藤野枝の人生に、う、やられた…と、訳もわからず打ちのめされた一冊だった。
こんなに重たいなんて、心の準備ができていなかったから、しばらくは消化不良に悶々としたものだが、本書を初めて読んだのは私が中学2年生、14歳のときだった。
確か冬休みに、部屋の角っこに背中を当てて、部屋の電気をつけるのも忘れて息をつめて一気に読んだ記憶がある。
あまりにも重々しい気持ちになったので、仲のよかった国語の先生に「いま、瀬戸内晴美をよんでいて」と読後感を分かち合ってもらおうとしたところ、あら…というなんとも言えない顔をして「あなた、わかるの?」と問うてきた。とたん恥ずかしさがこみ上げてきた。
出奔、愛欲、そして自立…女と男との、もつれ合うような愛の世界を描きながら、駆け抜けるように生きる女の性をテーマにした瀬戸内晴美の作品を、14歳の私が読んでわかるのか?まだ早いでしょう?という意味を含んだ言に、先生、わざわざそんなこと言わなくてもよいのに、と思った。先生のことが嫌いになった。
それはさておき、本書は大正時代の女性解放運動家であり、アナキスト伊藤野枝の凄烈な生きざまを軸に、?自由恋愛“という名のもとの不倫(なんと!あけっぴろげな四角関係)、そこに女性解放運動の先駆的存在である青鞜社の活動や、アナキストたちの動きが絡み合い、なんともまあ、生臭い人間模様を浮かび上がらせている。そして大正時代の女たちの、なんと活動的なこと!
野枝は福岡の玄界灘で生まれた。貧しい暮らしながらも東京へのあこがれを募らせ、東京にいる叔父に「ひとかどの人物となって必ず恩返しをする」と、三日にあけず「東京に行かせてくれ」という手紙を送りつける。
自分を“ひとかどの人物になる”と信じ、言い切る、このあたりの自意識過剰さと思い込みの激しさは、野枝の真骨頂であると思う。
猛勉強の結果、上野高等女学校に一年飛び級で合格。しかし在学中、英語教師・辻潤と出会い、同棲。帰郷すると親の決めた結婚相手がいたがそれを嫌がって、カタチだけの結婚をし、すぐさま出奔。そして辻は教職を追われることとなってしまう。
周囲の人間の思惑や迷惑を顧みず、当時の女性としては、なかなかに勇気ある行動でもあるが、野枝は周囲のあらゆるものをなぎ倒すように自分の生きざまを貫いていく。
辻潤のもと、野枝は社会問題に感心を深め、平塚らいてふの主宰する青鞜社にも顔を出すようになる。
はっきりいって、ワガママで自分勝手な野枝の評判は芳しくなかったものの、当時の“新しい女”といわれた人物たちに刺激を受け、野枝自身、堕胎、売買春、貞操などの問題に取り組み、多くの小説や評論、翻訳を発表していくようになる…と出会うもの出会うものを糧に前に突き進む。
実際のところ、野枝の活動や主張というものは、私にはよくわからない。その主張の前に、あんまりにも人間くさい野枝に釘付けになってしまうからだ。
そして今度は辻のもとを出奔し、アナキズム運動の中心人物であった大杉栄と同棲。大杉の唱える“自由恋愛”という名のもとの、大杉の内妻、東京日々新聞・神近市子、野枝が参入しての、抑制なき四角関係がまたすごい。
しかし神近が日蔭茶屋という旅館の一室で大杉を刺し、瀕死の重傷を負わせる「日蔭茶屋事件」が起こった。
野枝には猪突猛進なわかりやすいパワーがあるが、しかし私はダボハゼのようで、あつかましく、強引で、粗野で・・・むさぼる感じが好きになれなかった。こういう女性がいると、台風の目のような彼女に振り回されて、周囲のものは大変だと思う。でも、その濃さに、目が離せない。
野枝は関東大震災後、大杉栄とともに、憲兵大尉の甘粕正彦に連れ去られ扼殺。これは世に「甘粕事件」として知られているが、このとき野枝、28歳……。
「吹けよ、ふけよ、嵐よ、あらしよ」という野枝の言葉もあるが、彼女の人生はブレーキが作動しない車の運転のようなものではないか。最初、主人公・伊藤野枝の写真を見たとき、浅黒い顔にビッシリと生えた太い眉毛、野生的で傲岸不遜な視線に神経の太さを感じて、私は好きになれなかった。
野枝の享年をとうに越えた私としては、駆け抜けた彼女の人生の濃さが、あんな死に方は真っ平ごめんではあるものの、ちょっとまぶしくもあるのはなぜだろうか…。