チェックのネルシャツに、ぼさぼさの髪を隠すように野球帽を目深にかぶり、怯えるように中空を見つめるティム・オブライエンを、プリンストン大学の文学セミナーで見かけたと村上春樹氏はどこかに書いていた。ベトナム戦争が終わり三十有余年経ったいまでも、ティム・オブライエンは左右どちらかの目で、ベトナムでの光景をずっと追い続けているのに違いない。
ティム・オブライエンは1946年ミネソタ州で生まれ、69年マカレスター大学政治学部を卒業後一週間で米陸軍に徴兵され、ベトナムへと赴いた。70年に帰還後、ハーバードの大学院に進み、その後ワシントンポストの記者として勤めながら、温め続けていた主題を作品化してゆく。それがデビュー作『僕が戦場で死んだら』(白水社)である。あまねく作家の処女作がそうであるように、ティムのこれから書くであろう作品の萌芽のすべてがここに集約されていた。ベトナムで見たもの、感じたことが、ある意味で彼の作品を規定した。もちろん『本当の戦争の話をしよう』も例外ではない。
『本当の戦争の話をしよう』(1998年発表)は、回想録ともノンフィクションとも、型通りの小説集とも少し違う22の短いお話によって構成された短編集で、原題は“The things they carried.”― 直訳するなら「彼らが担ったもの」―である。これと原題同名の短編が本書の巻頭に収められているために、邦題は別に付けられた経緯がある。
「兵士たちの荷物」と題された短編の書き出しはこんなふうに始まる。
「ジミー・クロス中尉はマーサという名前の娘から来た手紙を持っていた」。
中尉は夕暮れ時、その手紙をきれいに洗った手でつまみ上げるようにして拡げ、何度も読み返す。そしてマーサを夢想する。その手紙の重さはしめて30グラム。兵士たちはリュックの中に思い思いのものを詰め込んでいた。別にたいしたものが入っているわけではない。ジャングルブーツ、雨よけのポンチョ、毛布、コンドーム、トランキライザー、聖書、恋人からの手紙…そんなものだ。望むでもなく、拒否するだけの勇気が持てずに、祖国からはるか数千マイルも運ばれてきて兵士たちにとって、それぞれの所有物と思いの重さが霧のようにリュックにまとわりつき、彼らに質量を超えたある重さを与えていた。
「彼らはいつ死ぬかもしれぬ男たちが背負うべき感情的な重荷を抱えて歩いていた。悲しみ、恐怖、愛、憧れ、それらは漠として実体のないものだった。しかしそういう触知しがたいものはそれ自体の質量と比重を有していた。それらは触知できる重荷を持っていた。彼らは恥に満ちた記憶を抱えて歩いていた。彼らは辛うじて制御された臆病さの秘密を共有していた。(中略)人々は殺し、そして殺された。そうしないことにはきまりが悪かったからだ」。
そして最後の場面で、中尉は部下を死なせてしまったことを悔みながら、マーサからもらった大切な手紙を燃やし、行軍を開始するところでこの小説は終わっている。かすかな希望ですらあったわずか30グラムの手紙は中尉にとってどんな重みだったのか。
ティム・オブライエンの書きたかった重さを象徴的に提示したエンディングである。ぶっきらぼうで洗練されているとは言いがたい表現が、むしろこの短編の命となり、文学的な真実を宿しているように思えてならない。
「レイニー河で」では、徴兵を忌避しようと、車でカナダ国境付近まで逃亡する青年ティムが描かれる。レイニー河畔の寂れたロッジ、川向こうはもうカナダだ。「私」はそこに宿を取り、6日間を過ごす。宿の主人はエルロイという老人だった。彼は「私」になにも聞かなかった。黙って釣りをさせ、ロッジの修理を手伝わせた。老人にはすべてお見通しのように思えた。エルロイが電話をかけさえすれば、追っ手がやってきて「私」を逮捕し、ベトナムの前線に送り込むことなどわけのないことだった。老人はそんなことはしなかった。そればかりではない。老人はロッジの修理を手伝ってくれた礼として日当まで払ってくれたのだ。その金をポケットに「私」と老人はレイニー河にボートを浮かべる。20ヤード先はカナダだった。
ボートの上で、「私」は釣り糸をたれる老人を見、自分の手を見つめ、カナダを見た。「私」はついにレイニー河に飛び込むことができなかった。彼はボートの向きをロッジのある岸へと向けると、ゆっくりミネソタへ漕ぎだす。逃避行はそこで終わりだった。そうして「私」はベトナムへと向かったのだ…。