思春期に夢中になって読み、何度も読み返し、大人になってからでも手にとって読める本というのは、そうそうあるものでもないが、飴玉のように何度も何度も舌で転がして味わうような作家といえば、私にとってはこの人、氷室冴子。
集英社の「コバルト文庫」といえば、当時一世を風靡し、少女たちのハートをわしづかみにしたものだが、中でもその最盛期を担った氷室冴子の作品は、中高生を主人公としながらも表現方法のレベルはけっして落とさず、大人びた作風で「少女小説」の枠をはるかに超えていたものだ
当時は漫画と二分するほどの盛り上がりで、コバルト文庫のライバルとして講談社のティーンズ文庫もあったが、私個人の好みとしては、断然コバルト。少女向けの甘い物語に収まらず、大人が読んでも夢中になるストーリー、物語の深み、面白さがあった。
氷室作品として世に広く知られているのは、平安時代・瑠璃姫を主人公とした大ベストセラーの『なんて素敵にジャパネスク』シリーズであろうが、氷室冴子もコバルト文庫からじょじょに発表の場を移していった。コバルトファンからすればガッカリでもあり、いや氷室冴子なら当然よね、この枠におさまりきらないものね、とうなずく気持ちあり。
それまで「日常の悲喜こもごもは、個人的なことで直接表現するものではない、消化して小説に注ぎ込むべきだ」と思っていた筆者が、あるおじさんインタビュアーから「ああいう小説って、やっぱり、処女じゃなきゃ、書けないんでしょう」と(いやらしくではなく純粋な質問として)三十路前の氷室さんに聞いてきたときの驚き、その世間とのギャップに愕然とし、何かの機会に日ごろ思っていることをリアルな雑感としてまとめてみたいと考えたものだ。
本書は「いっぱしの女の“夢の家”」「いっぱしの女のため息」「いっぱしの女から男たちへ」「いっぱしの女の生きる時代」の四つの章からなるが、一つ一つが小説のネタになりそうな内容の濃さ。
この書名も、男友達に「君も30を過ぎていっぱしの女になったんだからさ・・・」と生活態度を注意されたことから、この「いっぱしの女」というタイトルを思いついたようであるが、“いっぱしの女”であるはずの氷室冴子からみると、 “自分は正しい”という根拠のない良識を振りかざし、善良ぶるゆえに人を傷つける人、「世間は・・・」と自分が世間を代弁するかのように錯覚して生きている人などの姿に、笑いながらも、時に怒りを共有しながらも、ついつい「これ、わかるわぁ」「世間てやつは・・・」と、オバサンのつぶやきさながらに、読んでしまう。
発想は縦横無尽に自由だけれども、根は生真面な氷室冴子の繊細で鋭い観察眼で日常がつづられている。氷室冴子はディテールの書き方が抜群にうまい。日常風景、会話を鮮やかに切り取り、さらに生き生きと色づけする。
巻末の女優・高泉淳子さんとの対談は、母と娘の壮絶なバトル、作家としての自立までを語っていて、その想像を絶するかけだし時代の貧乏エピソードはすさまじく、こんな貧乏&作家誕生物語があったなんて、切なく、そして笑える。
ただただ気がかりは現在、氷室冴子の新作が出ず、そしてその近況が知れないだけに、すでにある本は、特に貴重で大事にしたい一冊である。あわせて『冴子の東京物語』(集英社)もオススメ。