前回ぼくが読んだ村上春樹の本は、シドニーオリンピックのことを書いた「Sydney!」だった。この本でぼくは、村上春樹が毎朝欠かさずに走っている人だということを知った。ぼくも15年ほど前から走っている。毎朝走るのはぼくにとっても理想だけど、実行するのはなかなかむずかしい。
今回ぼくはまた村上春樹の走ることについての本を手にとった。本屋で少し立ち読みをして、それを買って帰り、家でまた最初から読んだ。走ることについて書いてある本なのに、読み終えたとき心が温かくなるのが不思議だった。
「自分について語りすぎるのもいやだし、かといって語るべきことを正直に語らないと、わざわざこういう本を書いた意味がなくなってしまう。」あとがきで作者はこう書いている。ぼくは村上春樹の小説を読むと、自分が正直になったように錯覚してしまう。正直なのは村上春樹の文章なのに、それを読んだ自分が正直者に生まれ変わったような気がするのだ。それでぼくはなかなか村上春樹の小説を読まないでいた。「走ることについて語るときに僕の語ること」なら小説ではないから、そんな作用は自分に及ぼさないだろうと思っていた。ところがそんなことはまったくなくて、小説も走ることについての本も同じなのだということを知った。そんな作用をぼくに及ぼしても、ぼくは「語るべきことを正直に語る」村上春樹の文章が好きである。
「たくさんの水を日常的に目にするのは、人間にとって大事な意味を持つ行為なのかもしれない。」第五章の何ページ目かで、ぼくはこんなすてきな文章を見つけた。ボストンのチャールズ河をぼくは知らないけど、ニューヨークのハドソン河なら思い浮かべることができる。春、夏、秋、冬と、ぼくはこの河に沿って走ったり、ほとりにたたずんだりしている。アメリカの河の水量は、たしかに「たくさんの水」という言い方が似合っている。河というよりも歩く湖のようだ。ぼくのニューヨークのアパートに友だちが遊びに来ると、どうしてもハドソン河を見せたくなる理由が、この文章を読んでなんとなくわかったような気がした。
スポーツに苦しみはつきものだと村上春樹は書いている。ぼくも今までに8回フルマラソンを走ったことがあるが、途中で必ず苦しみがやってくる。その苦しみに最後まで付き合うか、いっそ走るのをやめるかの二者択一しかないから、たいていの人は結局最後まで走ってしまう。もう走らなくてもいいという「安堵感」は、完走しないと得られないから。そうしてまた次のレースのことを考える。「走ることについて語るときにぼくが語ること」を読んだら、まずいことにぼくも100キロのウルトラマラソンを走りたくなってきた。