読み終えて、ほうっと息が洩れた。最後の数十ページ、無意識のうちに、息を詰めて読んでいたらしい。小池真理子『望みは何と訊かれたら』である。彼女が描く物語世界、とりわけ恋愛小説の特徴は、その濃密さにある。みっしりと艶めかしく、匂い立つように官能的でありながら、決してウエットになり過ぎず、熱く静かに乾いている。それが、彼女の世界だ。本書は、そんな彼女のエッセンスを凝縮したような物語である。
本書のヒロイン、槇村沙織は54歳。夫と共に仕事で出かけたパリの、ギュスターヴ・モロー美術館で、33年前に別れた男、秋津吾郎と偶然出会う。彼は、沙織にとって特別な男だった。秋津から連絡先である名刺を渡された沙織は、そのたった一枚の紙切れを前に、帰国後も心が揺れ続ける。そして、そこから、沙織が秋津に出会うまでの回想が始まる……。
一九七〇年、東京の私大に合格し、仙台から上京して一人暮らしを始めた沙織は、同じ大学の高畑美奈子との出会いから、「革命インター解放戦線」通称、革インターというセクトに参加することになる。セクトのリーダーである大場修造は、ある種のカリスマ性を帯びた男で、沙織は次第に大場に魅かれていく。
70年安保闘争が変化を見せ始めていた時代、「“祭り”は静かに終息に向かっているかのようでいて、実際には、より過激なものに姿を変えつつあった」その時代、沙織が加わった革インターも、過激化の一途を辿る。東京の大場のアパートを引き払い、P村のアジトでメンバーが暮らすようになってから、その傾向に拍車がかかり、終にはメンバーの一人の女性の“処刑”が行われるまでになる。その“処刑”が引き金となり、アジトからの脱走を決意した沙織は、処刑後の死体を遺棄する途中で、所持金三百三十五円とともに、一人で山を降りる。大場からの追手を考え、自分のアパートには戻らず、美奈子のアパートを目指した沙織だが、美奈子は不在でいつ戻るかは知れず、脱出行で精も根も使い果たしていた沙織は、美奈子のアパート近くの公園のベンチで行き倒れてしまう。ぼろ雑巾のような状態で気を失っていた沙織に、声をかけた一人の男、それが秋津吾郎だった。訳ありな様子の沙織を、吾郎はおぶって自分のアパートへと連れて行く。最悪の場合はこの男に陵辱されるかも知れない、と思いつつも、沙織が吾郎の背中に身を預けたのは「ただ、何も考えずに、安全な場所で休みたかった」から、だ。「その願いさえ叶えてくれるのなら、後で何をされようが、かまわない」と。
吾郎のアパートで、二十四時間眠り続けた沙織は、その後も吾郎の献身的な看病を受ける。あたかも、雛鳥が親鳥から面倒を見てもらうかのように、吾郎の部屋という閉ざされた空間で、沙織と吾郎はむせ返るような濃密な時間を共有していく。この、吾郎との時間、が本書の肝、である。革インターでの日々は、沙織が吾郎とめぐり合う、実は単なる舞台立てにしか過ぎない。それだけで一編の物語になるくらいの話にもかかわらず、作者はそれを惜しげもなく“背景”として描くのだ。それが、この作者の凄みでもある。
やがて、吾郎の、一途過ぎる献身が、次第に沙織を精神的に追い詰めていようになる。折しも、都内では革インターによる爆弾テロが起き、沙織と吾郎の身辺にも、革インターの追手の影がちらつき始める。一九七二年、十二月十八日、冬晴れのある日、沙織は唐突に吾郎の部屋を出て行く。それは「死にも似た安息」との訣別でもあった。そこから、沙織は再び自分の人生に戻って行く。沙織と吾郎の物語はそこで一旦は途切れるが、三十三年後、二人は再会する。
物語のラスト、鎌倉湖にある吾郎の家で、二人は向かいあう。吾郎は沙織にこう訊ねる。「望みは何?」と。壮絶なまでに妖しく美しいこのシーンで、物語は幕を閉じる。