塩見さんは、賤民史研究のパイオニア。小説『浅草弾左衛門』(全六巻)、評論『乞胸 江戸の辻芸人』『異形にされた人たち』など快作がいくつもある。小説『北条百歳』(全四巻)を執筆する際は、都内を引き払った。北条氏の本拠地があった小田原に二階家を借り、家族とともに四年間移り住んだ。
あくなき史料の跋渉と分析の前には、たいていの大学の研究者もかすんでしまう。
その塩見さんが満を持し、はじめて〈吉原〉に斬り込むのだから、面白くないはずがない。通説を注意深い手つきで腑分けし、疑問点を摘出し、間違いをただし、実像に迫っていく手法は、ミステリー以上にスリリングだ。
本書は、吉原の変遷を軸に、江戸・東京という土地の記憶・来歴をたどる労作である。
〈色町の地霊は、幾度も呼び起こされる〉
いろいろなことを教えられた。たとえば、色町の移り変わりだ。
吉原以前、江戸にはいくつもの遊里があった。江戸城の築城や市街地の開発が始まると、各地から流入する労働者を相手とする傾城屋(遊郭)があちこちに出来た。麹町八丁目、鎌倉河岸、京橋角町・・・。
著者によると、麹町八丁目の遊里では、十数楼が軒を連ねた。現在の鉄道弘済会館のあたりだ。三百余年後、浩宮と同妃は成婚パレードで、この前を通ることになる。
ちなみに、横浜スタジアムの土地には、港崎(みよざき)遊郭があった。横浜開港を控え、町中の秩序と良風美俗を守るため、外国人居留地内の沼を埋め立てて作られたものだ。
もとの吉原は、江戸城のちかくにあった。大手門をまじかに望む盛り場で、浪人たちがとぐろを巻いている。これは危険きわまるぞ。日本橋人形町の吉原が、幕府の浄化作戦によって、城の鬼門に当たる北東の荒れ野に移転させられる。新吉原。いまの吉原(台東区千束)だ。
僻遠の地に押し込めながらも、徳川幕府はしっかりしている。南町奉行所を通じて、吉原の売り上げの一割を吸い上げていく。明治新政府もこの方針を受け継ぎ、南市政裁判所がその役割を果たしてきた。
また、江戸が拡張するにしたがって、街道の宿場町である四宿(品川・千住・板橋・新宿)での飯盛り女による売春も盛んとなる。吉原では西方寺の土手に編み笠屋が軒を並べていた。顔を隠して出入りしたい人が利用した。
上野の寺僧は、新吉原は値が張りすぎるので、医者の格好をして、千住に通う。仏教の禁戒である女犯を、多くの僧が冒し始めている。ここで、はやくも日本仏教界の変質を知る。江戸期、島原の乱以降、万民は、特定の寺院を菩提寺と定め、キリシタンでないことの証明として檀家になることを義務づけられた。寺は宗門人別帳を制作する機関、つまり人びとを管理する役所と化している。このころから庶民の救済などは、二の次、三の次なんだなあ。人別帳には出身地、生年月日、続柄、宗旨、身分、収穫高などが記載されていた。つまり戸籍、徴税台帳、身分証明書を兼ねており、この台帳に載っていないと「帳はずれ」の無宿人とされてしまう。無宿は、それ自体が犯罪だ。捕まると、佐渡の金山などに送られ、水替え人足として生涯を終えた。寺院が人びとを排除・選別する役目を帯びていたことになる。