トゥーサンが描く、愛の終わり…。2003年の秋も終わり、冬が始まろうというある日、その言葉が何かの啓示のように突然降ってきたのだ。多分、新聞広告の惹句だったのだろうが、わたしにとってはなにかもっと別の謎めいた暗号のようにも思われ、その言葉に惹きつけられるように「愛しあう」を買い求めると、その日は珍しく酒場にも立ち寄らず、そそくさと電車に乗ると待ちきれないように頁を繰っていたのである。
行文を辿るうちに、まるで主人公がポケットに忍ばせていた強い酸にでも侵されてしまったような灼熱感が四肢を満たし、息を継ごうと眼を上げると薄墨に暮れる車窓の中を剥き出しの神経のような裸木の影が流れていったのをいまでもなぜか憶えている。
散文技巧を尽くしてユーモアを追求し、トゥーサンの最高傑作と目された前作「テレビジョン」から5年、確かに新作への飢餓感がそうさせた部分があったとはいえ、「愛しあう」から受けたショックは半端なものではなかった。正直、トゥーサンはどこまで進化し続けるのだろう、と思った。小説という散文芸術にこれ以上、何を求めうるだろう、というようなある種の完成形をぽんと目の前に差し出され、歓喜にうち震えた次の刹那、一転奈落へと落ちてゆくような気分を味わった。自分の書く文章がどこまでもつまらなく思え、どんな小説も陳腐で我慢ならなくなってしまったのである。
本書のフランス語原題は“Faire L'amour”で、英語なら“Making Love”、日本語ならさしずめ「寝る」とか「やる」とかいったような直截なものいいになる。そんな言葉をトゥーサンは敢えてタイトルに選んだ。訳者の野崎氏はそれをぎりぎりで受け止め、「愛しあう」という美しくもエロティックな題名へと昇華させた。野崎氏の苦心と配慮の賜物とはいえ、なんとも絶妙である。
物語は、いつかだれかの顔に投げつけてやろうと、塩酸を詰めた小瓶を忍ばせる「ぼく」の独白からはじまる。「ぼく」は恋人であるデザイナー兼アーティスト、マリーの日本でのコレクションに合わせて、彼女とともにやって来る。愛の終わりの予感を胸に秘めながら…。新宿のホテルに着くや地震が二人を見舞う。もうこれが最後といいながら、体を重ねあう「ぼく」とマリー。そもそものはじまりは七年前のパリ。ワイングラスをそっと触れあわせた瞬間、彼女は恋に落ちた。新宿の副都心を見渡すことのできる高層階の闇のなかでの情事、快感が高まるほどに酸がぼくらの内で強まり、暴力が膨れ上がってくるのを感じる。裸のマリー、闇に浮かぶ新宿。上階のプールでぼくは泳ぎながら地震を夢想し、すべての終わりを祈る。
マリーは外へ出たいという。背中の開いたドレスにスリッパ姿のマリー、寸足らずのコートにゴムサンダルのぼくは、冬の街へと出てゆく。食堂で熱いラーメンをすすり、このまま時が止まってしまえばいい…。降りはじめた雪に足を濡らしてただひたすら歩き続ける。ぼくらは濡れて凍えた体でやけどしそうに熱い缶入りのカプチーノを飲み、もはや埋められないものを感じながら、新宿に陽が昇るのを眺めた。
その日の午後、ぼくは京都へと向う。京都では風邪をこじらせ、友人の住む日本家屋で、熱と悪寒に冒された体を横たえ、朦朧とした意識で雨音を聞いては、眠り続けた。熱が引いたぼくは旅館へと移ることに決め、京都の街を歩き回る。電話ボックスに入り、マリーに電話すると混乱した頭で彼女は応答し、黙ってその声を聞き、外へと出るとぼくは無限に幸せで無限に不幸だった。ぼくはその晩のうちに東京へと戻った。ホームから電話をかけたが、彼女は不在で、彼女の作品が展示されるアートスペースへとタクシーを飛ばした。アートスペースでは監視カメラが作動するなか、出てきた若者が閉館ですと制止するのも聞かず、塩酸の小瓶をポケットに忍ばせて、コントロールルームへと進んだ。展示室に入り込み、小瓶の栓を開けた。若者のシルエットが動き、震える指先で小瓶をもったまま、ぼくはマリーの名を呼ぶ…。