『不思議の国のアリス』のようにナンセンスで、『ロッキーホラーショー』のように狂躁的で、しかも『魔女の宅急便』のように愛と希望に満ち、その作品は『収容所列島』から生まれた。そう、この二十世紀ロシア文学最大のメガヒット作品は、なんとも恐ろしい血も凍るような時代環境のなかで書かれた。赤地に鎌とハンマーの旗を翻し、颯爽と誕生した労働者の労働者による労働者のための国は、あっというまに一党独裁政権に。すでにブルガーコフは1920年代末に全作品の上演禁止・発行禁止をくらっている。ブルガーコフはモスクワ芸術座の舞台監督を六年ほど勤めたが、そこも降りてからはオペラの台本書きを細々とやりながら、現世での発表をあきらめ、いつか体制が変わり自由な時代が来た日に、必ずや作品が世に出て喝采を浴びることを信じて、秘密裏にこの作品を書いていった、スターリンの時代のソヴィエトの1930年代末に。そう、時まさに大粛清時代なのである。ブルガーコフの肉体は滅びたが、作品は残った。そして『巨匠とマルガリータ』は没後三十年を経て、不死鳥のように空に舞い上がり、世界的大ベストセラーになった。ひとつの伝説がここにある。
この物語はふたつの極をそなえ、そのふたつの極をめぐって、四次元メリーゴーランドのように展開する。一方の極は、モスクワは悪魔にのっとられちゃって大混乱という話であり、その中心に巨匠と名のる失意の作家がいる、かれはポンティウス・ピラトゥスの作品を書いたことで、文学界から追放された。他方の極は、二千年まえ古代ローマであり、その中心にポンティウス・ピラトゥスがいる。かれはイエスの処刑を是としたことで、その後二千年にわたって煩悶と後悔をしつづけている。時空を隔てたふたりの男の失意が、物語の終りで、いずれも救済される。一方に美女マルガリータの活躍があり、他方に、巨匠のペンの力がある。
ある五月の夕暮れ、舞台はモスクワ。パトリアルシエ池の菩提樹の下で、ふたりの男が話している。ひとりは作家協会議長ベルリオーズ、肉付きもよく、でっかい黒ぶち眼鏡をかけ、スーツを着こなしている。他方、相手の詩人イワンは「宿なし」と呼ばれ、赤茶けた髪をぼさぼさにした若い男で、ハンチングをかぶって派手なシャツによれよれの白いズボンを穿いている。ベルリオーズは、イワンを相手に熱弁をふるう、イエスなんていないんだ。実は先日ベルリオーズはイワンに(労働者の国ソヴィエトにふさわしい)反宗教的叙事詩を依頼したのだった。しかしイワンが書いてきた詩は、たんにイエスの誕生を風刺的に描いた詩で、そこがまったくベルリオーズには不満だった。
わかってないなぁ、イエス以前にも、神様が子供を生む神話は多い、ただしそれはすべてあくまでも神話で、けっして実在しない、同様にイエスもまたはなから存在しないんだ。でね、そういう認識にもとづいた詩を書いてほしいんだ。わかったかい?