そこに男が割り込んできた。灰色のベレー帽をかぶり、灰色のスーツを着こなし、プードル犬の頭のついたステッキを小脇に抱えている。右目は黒く、左目は緑色。かれは外国人らしいロシア語をつかいこなし、かれらの話す無神論に首をつこっこんできた。ベルリオーズもまたものめずらしさからこの外国人に興味を持ち、はじめはしんせつに説明する、ずっと以前からわが国の住民の大多数は神についてのお話をするのを自覚的にやめてきたんですよ。すると外国人はにこやかに社交辞令を述べながら、おもむろに反論する、「千年ほどの計画もたてられないばかりか、あしたの命さえ知れない人間が、どうして社会を支配できるでしょうか?人間なんて肺に腫瘍のひとつもできればかんたんに死んでしまいます。それどころかときとしてとつぜん死ぬ運命におちいりますから。」ベルリオーズはうんざりする。(ここで読者はおもいだすだろう、労働者の労働者による労働者のための国ソヴィエトを一党支配した共産党は、宗教を民衆のアヘンと見なし、階級差別の温存の根源としてはげしく弾圧したことを。)
しかしこの謎の外国人は、畳み掛けるように、ベルリオーズの死を予言する謎の言葉さえつぶやく。ベルリオーズはその予言をばかばかしく感じ、挑発するように訊ねる、わたしが誰かに殺されるとでも? すると外国人は不穏に予言する、ロシアの女、共産党青年同盟員にですよ。ベルリオーズはいまさらながらこの外国人を疑わしくおもい、身分を問うた。すると外国人はパスポートを見せ、自分の専門は黒魔術で、このたびヘルベルト・アウリアウスの原稿が発見され、その解読のために、世界でただひとりの専門家として、特別顧問として招かれました、と言った。とにかくイエスは存在していた、それだけのことです。
外国人は(ふたりの無神論者に向かって臆することなく、深みのある低い声で、おもむろに)話はじめる、ローマ帝国のユダヤ属州総督ポンティウス・ピラトゥスがイエスをゴルゴダの丘へ送ったエピソードを。ポンティウス・ピラトゥス、そう、ピラトは、イエスをエルサレムを堕落させるように民衆を仕向けた扇動者と見なした。むろんほんとうはイエスに罪はない、イエスはあらゆる人を善人と呼び、使徒もなく自分の教えを説いて回っただけだ。しかしポンティウス・ピラトゥスは、そうは考えなかった。かれはイエスに問う、〈ネズミ殺し〉と呼ばれる百人隊長のマルク、あの男も善人なのか? イエスは、そうです、と答えた、善人たちに顔を殴打されたときからマルクは無慈悲で冷酷な人間になってしまったのです。(むろんこの「ネズミ殺し」の隠喩も、収容所列島、ソヴィエト連邦を想起させる。)いずれにせよ、イエスは殺された。(いっぱんにポンティウス・ピラトゥスは、民衆に重税を科し、反逆者の苛酷な処刑をなし、ユダヤ教徒を弾圧した暴君として知られる。ただし『巨匠とマルガリータ』のなかでは、ポンティウス・ピラトゥスは、イエスを刑に処したゆえ、その後二千年煩悶しつづけるとされている。)ちなみに謎の外国人は、その一連の光景に(お忍びで立会い)すべて、この目で見てきた、と言い添える。