小説を読むのはただたのしいからであり、おもしろいからであり、べつに作品のなかに著者の住んでる国の情報を求めたりはしない。そんなものを期待するくらいなら、『地球の歩き方』でも文化史年表でも読んだほうがよほど役に立つ。しかし、逆に小説世界にはまればはまるほど、ひたればひたるほど、否応なく、その作品をつくりだした状況に(も)関心が向いてしまう、そんな作品もまたある。そう、いったいどんな(とんでもない)状況で、著者はこの作品を書いたんだろう、というような関心が、作品の内側からせりあがってくるような。この『チャパーエフと空虚』がまさにそうだ。そしておれは考えはじめた、ロシアの二十世紀末を。
いまにしておもえば1985年からはじまったペレストロイカは、ソヴィエト連邦崩壊のプロローグであり、同時にロシアの二十世紀末におけるしっちゃかめっちゃかなどんちゃん騒ぎのはじまりでもあったことがわかる。かれらにとってペレストロイカは、言論の自由が許され収容所に送られる恐怖はなくなったものの、他方で経済効果ははかばかしく上がらず、未来への希望を感じられない沈鬱をもたらしもした。そんな気が滅入るモスクワの街に、ロックンロールが、パンクが、ヒップホップが流れはじめ、若者たちはスケボーに熱中し、人民はマクドナルド一号店に行列をつくった(行列には慣れっこだった)。すでに1980年代後半ロシアは経済的にも文化的にもきわめて混乱していた。だが、まさか国家が消滅するとまでは誰もおもわなかった。しかし、消滅の日はおとずれた、1991年のクリスマス、モスクワのクレムリンから鎌とハンマーの赤い旗が消えた。解放政策をとなえたゴルバチョフ大統領は辞任し、七十年間の歴史を誇るソヴィエト連邦は消滅した。
むろんかれらは、それまでの価値観のすべてを否定し、資本主義を受け入れるほかなかった。七十年にわたる歴史はなんだったんだろう、と疑問を感じないわけがない。未来への不安は増えこそすれ減りはしなかったろう。いたるところで巻き起こる大混乱のなかで、文化の「入超」がつづく。たとえば文学の領域では、それこそ実存主義からビートニクからポストモダニズムから、それまで西側の退廃文化として知らされていなかったミステリから、なんでもかんでも一気に入ってきた。ロシア人作家たちはそれらのすべてを目をらんらんと輝かせて息せききって受け止め、しかもそれらのすべてを血肉化しようとしていった。これでは統合失調症すれすれに、ならないほうがおかしい。(既存の文学権威も失墜し、どさくさにまぎれてロシア・ブッカー賞まで生まれた、それはまさに外資系企業の参入と平行的な出来事だった。)
そしてこうしたロシア文学の二十世紀末の大混乱の時期を象徴するスター作家が、ヴィクトル・ペレーヴィンであり、そしてかれの代表作が、この、なんともとらえどころのない、悪夢的で、シュルレアルで、ユーモラスで、これみよがしなまでにポストモダンで、とっぴょうしもない、『チャパーエフと空虚』なのである。