愛する人の精神のなかに許し難いなにかが存在していることに気づくことは、つらく苦しいものだ。それでも相手を嫌いになれればまだ哀しみはたんじゅんだ、問題は、嫌いになれない場合だ。こういうつらさはけっして恋愛関係にかぎらない、きょくたんなはなし、対象が愛する作家であっても同じことだ、心に棘が刺さったようなおもいがつづくことになる。この小説は、ドストエフスキーを愛しぬいたひとりの読者の、葛藤の、物語である。なにゆえ葛藤なのか? かれがユダヤ人だからである。なぜって、ドストエフスキーときたらそれこそ、「小説のなかであれほど他人の苦しみに敏感で、辱められ傷つけられた人たちを熱心に擁護し、生きとし生けるものすべてが存在する権利を熱烈に、いや激烈ともいえるほどに説き、一本一本の草や一枚一枚の葉への賛辞を惜しまなかったドストエフスキー―そのドストエフスキーが、数千年にもわたって追い立てられてきた人々を擁護したり庇ったりする言葉をただの一言も思いつかなかった」。そう、ドストエフスキーは、どういうわけか、いかにも陳腐で、たいそう凡庸な、嫌ユダヤ人観をもっていて、作品のなかにもユダヤ人への蔑視の言葉を多くちりばめた。
ユダヤ人読者は、ドストエフスキーはなんて嫌な野郎だ、とおもうだろうし、おもってとうぜんである。しかしながらユダヤ人のなかにも、どうしてもドストエフスキーを嫌いになれない読者もまたいるのだった、たとえばこの語り手のように。いや、かれはもう嫌いになれないどころか全作品を愛読し、いつのまにか評伝的事実までこまかく知ってしまって、まかりまちがったらドストエフスキーよりもドストエフスキーにくわしいほどになっていて、ほとんど脳みそがドストエフスキーで占領されているような事態がおこっているのである。それであってなお、あいかわらずドストエフスキーのユダヤ人蔑視はかれの心に突き刺さった棘でありつづけていて、なんとも悩ましい。
読者は同情するだろう、できることならあなたを悩ませる葛藤から解放してあげたい、ただし、いったいどうやって? そうおもいながら読者は、この熱狂的ドストエフスキー・マニアに手を引かれ、かれとともに、ドストエフスキーと妻アンナの人生のなかへ分け入ってゆく。一方で遥かな高みをめざし、他方で賭博に入れあげ、妻とはげしい性愛を繰り返す、そんな、生き生きと火花を飛ばし運動する精神そのもののようなかれらの人生のなかに。
冒頭を引用しよう。
「夜行列車ではなかったけれど、季節は冬、しかも冬のまっただなかだ―十二月の終りというだけでなく、列車はレニングラードに向かっている―つまり北に向かっているので、窓の外はまたたくまに暗くなった―モスクワ郊外の駅がまばゆい炎をぱっと輝かせてうしろへ飛んでゆくさまは、まるで目に見えないだれかの手で放り投げられているみたいだ―別荘(ダーチャ)地域にある駅のプラットホームはすっかり雪に埋もれ、現われては消える街灯が溶けあって一本の光の帯になり―まるで列車は橋を渡るときのように、駅がにぶい轟音をたてて飛んでいく―その音が弱々しげにしか聞こえないのは、二重窓が客車をほとんど密閉状態にしているからだろうか、凍てつきかけた窓の白く曇ったガラスを透かして、やはり駅は炎のようにうしろに飛び去り、光の帯が長くのびて、行く手には雪の空間がはてしなく広がっているのだろうと思いを馳せると、列車が右に左に激しく揺れた―横揺れだ―とりわけデッキに近いあたりは揺れが大きく、しばらくして窓の外がすっかり暗くなり、点在していたダーチャも見えなくなって、ぼんやりした雪の白ばかりになると、私の姿も、席についている乗客たちも、笠をかぶったランプや車内の様子も、窓に映って走り出したので、私は頭上の網棚に置いたカバンから本を取り出し、モスクワで読みはじめ今回の旅にわざわざ持ってきたこの本の、栞を挟んだページを開くと・・・・・」