家で音楽を聴かなくなって久しい。「きょうの料理」が国営の教育チャンネルで放送される21時から朝、朝刊を配る自転車が去った後もしばらくはダラダラと開いている狭い店で、ほとんどノンストップで気に入った音ばかりを鳴らしているとそれでもう満足するらしい。家なら家人に苦情を言われる音量である。さらにヴォリュームを上げて定休日の、日曜日の深夜というか月曜日の未明にドアに鍵を掛けてカウンターの、普段とは反対の側に腰掛けて読みかけの本など繰りながらひとり好きな音に耳を預けるようになると家はほとんどのところただ寝る、食う、浴びるだけということにもなる。浴衣を着れば旅館まであとひと息だ。
新宿に小さな店を始めて5度冬が過ぎた。一年のうちで一番冷え込みのきつい2月の、一週間のうちで一番新宿が静かになる日曜日の深夜というか月曜日の未明に、もう何杯目になるのかディランの声に促されたわけではないけどコーヒーをもう一杯淹れて、読みかけの本に促されてさっき、26時まで開いてるTUTAYA新宿店で売ってなかったから借りてきた佐野元春の「情けない週末」をかける。
最後に聴いたのはたぶん高校のときだったか。「死んでる噴水、酒場、カナリヤの歌、サイレン、ビルディング、ガソリンのにおい」といった都市の風物を羅列した歌詞が、デビューしたばかりの青臭く気取った声に乗って運んでくる夜の街の気配の切なさや甘やかさを今、都会の隅で中年に差し掛かってわかる。すると急に、わかったつもりでいた中学二年の頃の自分が思い出されて、ついでにその前後の懐かしくも恥ずかしい色々に襲われて嗚呼、週に一度の休みが情けない週末のように思われて欠伸をひとつ。目を上げると窓に青みがわずかに差している。思えば冬至からもうふた月が過ぎている。
「とかく騒々しい声の中にあって、小尾隆さんのロック評論は悠然としている。控えめだが力強いまなざしがある。その潔さに触れる時、僕はロック音楽がもっと好きになる」
「70年代アメリカン・ロックの風景」と副えられた『Songs』という本に、佐野元春が帯に惹句をこう寄せている。1997年に刊行されたものに書き下ろしを5本加えて昨年復刊された本だ。いつも音楽を教えてくれるずいぶん年上の友達に薦められて読んだ。
まえがきやあとがきに著者が記しているように、この本は「ロックの概説書」でも「マニアックなデータ本」でもない。「網羅主義的なロック正史」でも「バイヤーズガイド」でもない。
過剰なコマーシャリズムが蔓延り、益々巨大化していく音楽産業にロックが取り込まれていく大きな流れのなかで、そうしたロックの主調音に静かに背を向けあるいは距離を取り、ロックのルーツを辿って、メンフィスやナッシュビル、マスル・ショールズといったアメリカ南部の都市に根差したカントリーやブルース、R&Bなどの音を、それぞれの解釈で血や肉とすることによって産み落とされたある種のロック音楽ばかりを、だいたい70年代のワン・ディケイドのなかで『Songs』は紹介している。この時代のこの種の音楽をどんな風に、どうして好きなのかといった個人的な視点で、どのミュージシャンの、どのアルバムの、どの曲について書かれたことばにも、著者のロックに対する価値観、さらにいえば世界観がそれこそ控えめに、しかし力強く横たわっている。