たとえばギリシア神話の『パンドラの箱』がいい例で、いいかい、この箱はゼッタイ開けてはいけないよ、っていわれれば、こっちもさいしょは、わかったよ、開けなきゃいいんだね、ってなものだけれど。しかしそんなことを言われて箱を受け取ったならば、禁止が期待をたかめる逆効果になってしまって、中身はいったいなんなんだろう、って気になって気になって、けっきょくそればっかり考えるようになってしまうもの。人間の心ってものは、そういうふうにできている。で、最後はつい、「ま、いいか、開けちゃおか」、と、禁断の箱を開けてしまうことになる。開けたが最後、ビンボーから病気から争いごとからろくでもないもんが次から次へとどんどんどんどん飛び出してきて、やばいッ、とおもって蓋を閉めたときにはもう手遅れだ。もはや箱のなかには希望しか残っていませんでした。と、まぁ、そんなシニカルなオチがつくわけだけれど、業の深いはなしだねぇ、ギリシア神話、おもしろいやね。ところであのパンドラの箱ってのは、いったいなんの喩えかしら、いろんな解釈があるだろうが、もしかしてあのパンドラの箱ってのは、人の心のことじゃないのかな。どうだろう?
いやね、この角田光代さんの『福袋』っていう短編集、ごくごくふつうの小説ですよ、というような顔つきをしているくせに、ところがどっこい、読んでみると驚くべきことにパンドラの箱を開けちゃってる。八つの作品が収められていて、とりわけ『犬』っていう短篇がすごいんだ、でも、そのまえにまず『フシギちゃん』のはなしからしよう、そうすると主題の深まりを追ってゆける。
『フシギちゃん』っていうはなしは、そんなあだ名で呼ばれているOLのはなしでね、はなしの全体は彼女のむかし語りっていう設定になってるんだ。彼女はちょっとアブナイOLで、セクハラ発言をした年配社員に、真顔でぶっ殺してやるって言ったり、給湯室の流しで染髪をしていたり、あれこれ伝説がある、それでもいちおうちゃんとOLをこなしている社会人ではあってね。さて、おはなしはそのフシギちゃんがかつて絵本作家志望だった時分、彼氏の部屋に転がり込んで、いつのまにか彼氏が会社に行っているあいだに、そ知らぬ顔して、彼氏の秘密を少しづつ知っていったっていうはなしなんだ。
狭い部屋、彼氏は会社に行っていて不在、ひとり残された彼女はまず衣装箪笥をそっと開けて下着を見る。次に天袋を覗いて、エロ本を発見する。学生時代のフランス語のノートがあった。むかし書いたらしい詩のノートもあった。おかあさんからの手紙も見つけた、(彼氏はおかあさんからマー君て呼ばれていた)。卒業アルバムも見る、そのなかにいるむかしの恋人もまじまじと。そんなふうにしてフシギちゃんは(彼氏とは、なにくわぬ顔で同棲生活をいとなみながら、ただし彼氏が会社に行ってる不在中に)彼氏の過去をどんどん知ってゆく。ある日、彼女は天袋の奥の奥にクッキーの缶を発見する。
おそるおそる開けてみると、そこには、彼氏が中学二年生から大学に入る頃までつきあったガールフレンドからもらった手紙の数々が詰まっていた。フシギちゃんは、その手紙を時間の経過に沿って並べなおし、ひとつひとつ順番に読んでゆく。文面のなかに現われる彼氏は、将来の希望を熱く語ったかとおもえば急に不安になって筋トレのメニューを考えたり、ファストフードの店でアルバイトをしたりする、彼女の知っている現在の彼氏とはまったく違った青年がいるんだ。フシギちゃんはもうびっくりしてその世界に引き込まれる。そんなことをやっているうちにフシギちゃんの脳内では、一緒に暮らしている〈現在の彼氏像〉がだんだんと〈手紙のなかの彼氏像〉に侵食されはじめてゆく。さぁ、このあたりから小説が不穏におもしろくなってゆく。