訳者の山川夫妻には、一度だけお目にかかったことがある。もう10年以上も前のことだ。そのころ私は所属する新聞社系の週刊誌で、先輩記者と二人で「死後の世界」を取材していた。「前世とは何か」「生まれ変わりは存在するのか」といったことをテーマに10回の連載記事を書いた。
なぜそんなことをしたかといえば、当時の編集長が「自分は胃がんかもしれない」と思い込み、悩んだ揚げ句に「人間、死んだらどうなるのか」が知りたくなり、部下に取材を命じたからだ。私たちは戦国時代に虐殺されたという「前世の記憶」を持つ男性と一緒に岡山県の山間の温泉町で「生まれ変わり」の証拠を探したりもした。後にも先にも、新聞社に勤める人間が業務として「あの世」があるのかないのかを、大まじめに取材したのは唯一のケースではないかと思う。
その取材の一環で、山川夫妻に出会った。山川夫妻は日本人にも「精神世界」(今どきならさしずめスピリチュアルか)を身近なものにしたといわれる、米国の有名女優シャーリー・マクレーンのベストセラー『アウト・オン・ア・リム』の訳者で、夫の紘矢さんはこの本の訳出(1986年)をきっかけに、大蔵省(当時)キャリアの身分を捨てた。自宅を訪れた私たちを山川夫妻は歓迎してくださり、諭すようにこう話した。
「あなたたち、今の仕事は自分の意思でやっていると思っているだろうけど、実は大いなる力によって『やらされている』のです」
常に「事実」を追いかけることを使命とする記者が、目に見えない「死後の世界」を取材するようになったのは決して偶然ではなく、大勢の人々に魂の世界を知らしめる「役目」を負わされている、ということだった。山川夫妻は私たちを「いい仕事をしている」と励ましてくれ、帰り際に一冊の本をくださった。それが『アルケミスト』(1994年、地湧社発行の単行本)だった。
しかし、実をいえば私は当時、本気で「死後の世界」が存在するとは考えていなかったし、大蔵官僚という人がうらやむ人生からわざわざ路線変更した山川さんの心根も、身に染みては理解できずにいた。一行も目を通さないまま、『アルケミスト』はいつの間にか私の書棚から消えていた。
本との再会は偶然だった。何のことはない、酒の席で酔いに任せて人間はいかに生きるべきかという話を同僚(こういう話ができる貴重な新聞記者である)としていたときに、勧められたのだ。
「羊はなぜ、殺されて肉にされるときも、人間の意図に気づかないのか。羊は常に人間に連れ回されるが、行く先には必ず食べ物がある。羊は決して自分から行動しないが、それは羊にとって楽なのだ。たまに毛を刈り取らせてやると人間は喜ぶ。羊は人間を友達だと思うようになる。そうやって、羊は人間を恐れる本能を失ってしまう」
同僚は本に書いてあることを下敷きにしてそんなことを言った、ように思う(もとより正確には覚えていない)。私は猛烈に『アルケミスト』が読みたくなった。その羊は私かもしれない、と直感したからだ。
著者のパウロ・コエーリョ氏はブラジル人で、1947年生まれというから日本でいえば団塊の世代である。作詞家として成功していたが、30代半ばでそれまでの実績を放り投げて世界へと飛び出す。その旅の中で、作家としての礎を固めたという。
断っておけば、この本は別に「あの世」を描いたものではない。羊飼いの少年が、夢で見た「宝物」のありかを探すために羊を手放し、住み慣れた土地から見知らぬ国へと旅に出る。途中で出会った賢人たる「錬金術師(アルケミスト)」に導かれて旅を続ける中で、夢をかなえる(つまり「宝物」を発見する)には何をしなくてはならないか――を学んでいくというファンタジーである。
大部な作品ではない。文庫版だと本の厚さは1センチに満たない。主人公が賢人に出会い、さまざまな知恵を授かる小説のスタイルも珍しくはない。だが、私は読み終えるのに丸1週間を費やした。十数行読み進むと、必ず心が釘付けにされる言葉にぶつかる。そのたびに私はページを伏せて目を閉じ、言葉を反芻する。目から入ってきた言葉の響きを、自分の心の発音としてリピートできるようになるのを待って、次へ進む。するとまた十数行で視線が止まる。どうにもはかがいかない。私は信じる宗派を持たないが、例えばキリスト者が聖書を読むときは、こういう心持ちなのではないか、と想像したりする。