旅はやはりいいものだと思う。今よりずっと若い頃は、遠くて知らない土地へ行けること自体が嬉しかったけれども、旅の本懐とは、移動することそのものにあるのでは。今ではそう思えるようになってきた。移ろうこと。心身を軽やかにしていくこと。そして時間という迷宮を彷徨っていくこと。いつも同じ窓から定点観測ばかりをしている僕には、そんな旅が少しだけ羨ましい。
池澤夏樹が2000年から2006年にかけて書いた短編を纏めた『きみのためのバラ』。この本に登場する主人公たちもまた、移動することの開放感を、また同時に旅することで生じるわずかな心のきしみを抱えているようだ。北欧の街の片隅でもの思いに沈む離婚歴のある日本人男性を描いた「ヘルシンキ」にしても、西ベルリンからパリへと辿り着いた男の回想録とでも言うべき「人生の広場」にしても、通り過ぎていった時間と場所の移動とが奇妙な様相を呈しながら、小さな物語が次第に大きなうねりを見せていくような着想の豊かさを感じる。あるいはアマゾナス地方に生息する部族の慣習に訓話的な響きを持たせた「レシタションのはじまり」や、現在の沖縄での男女の出会いを尚王朝の時代の言い伝えまでになぞらえた「連夜」には、今という時代から遡って、そっと古層を探り当てていくような歴史の連続性への敬意を滲ませる。
とりわけ秀逸なのは、本作の表題ともなった「きみのためのバラ」だろう。とある街で通勤電車に乗っている男は、同乗する妻から席を移ることを促される。その原因は車中に置かれた誰のものでもない荷物だ。これが暗にテロリズムをほのめかしていることは言うまでもないだろう。妻とともに電車のなかを移動する主人公はしかし、突然ここで過去に襲われるのだ。それは彼がまだ学生であった頃の旅の記憶である。グレイハウンドのバスに乗ってアメリカを横断していた青年は、やがてメキシコにまで足を延ばし、その移動の中で様々な人々や風景と出会う。そんなゆったりとした甘美な世界を、彼は次第に取り戻していくのである。
こうして物語は、現在から過去へと鮮やかな反転を見せる。わずか22ページほどのこの短編が語りかけてくるものは、テロリズムの時代に於けるファンタジーなのかもしれない。そう、たとえ困難な時代に身を置いていたとしても、夢を見る力はあるということを。現在と過去とは反目する要素ではなく、いつもどこかで結び目をつくり、補完し合う関係にあるということを。そして大振りではない言葉や所作こそは、いつまでも人々の心に宿り、暗闇をそっと照らし出すことを。池澤夏樹はそのことを知っている。