背が低い、鼻はでかくて尖ってる、鳥みたいな顔。田舎育ちでね、学校行っても勉強なんてぜんぜんしないし、できない。できない癖に、平然としてる、どことってもぜんぜんだめ、劣等感の塊なんだけれど、それでいて内心、どこか根拠のない優越感もまたもっている。勉強できないんなら勉強がんばればいい、そうじゃなかったらスポーツでがんばればいい、でも、それもしない。けっきょくかれがなにをやるかっていうと、みんなを笑わせて、目立とうとする。たとえば朗読が巧くって、ちょっと俳優みたいな調子で朗読したりする。そういうときだけは、ふだんはかれのことバカにしてる連中も、おぉ、あいつ意外と凄いじゃん、なんて感心したりする。いたでしょ、クラスに、こういうタイプ。それがゴーゴリなんだ。こういう人はだいたいコメディアンに向いているんだけれど、しかしゴーゴリは小説家・戯曲家として成功した。デビューも早い、二十歳、もっともそれは自費出版で、酷評されて、頭にきて、本屋に残ってる本ぜんぶ回収して燃やしちゃうんだけど。でも二十二歳の頃にはもうちゃんと作家になってる。ただし、はげしい生涯なんだよ。それに自意識過剰でね、彼女いない歴四十三年で、けっきょく童貞のまま死んじゃった。死に方がまたすさまじくてね・・・あ、そのはなしは後でしよう。マザコンなんだろうなぁ、人生のめぐりあわせだものね、そういうことは。いかにも不穏な人でしょ? では、『鼻』と『外套』を読んでゆきましょう。
まずね、『鼻』はこんなはなしなんだ。床屋のイワンが朝起きると、奥さんが竈からパンを出している、焼きあがったパンをイワンがふたつに切り分け、なかをのぞいてみたところ、おや、パンのなかに白っぽいものがある、おそるおそるナイフでつつき、触ってみると、固いんだ、なにかとおもったら、げげげ、だれかの鼻だった。イワンの稼業は床屋、イワンは身に覚えはないのだが、ただしおもいあたるふしもある、どうやら八等官コワリュフの鼻に違いない。イワンはうろたえ、あわて、その鼻の、証拠隠滅を試みる。他方、ある日じぶんの顔から鼻の消えたコワリョフは気も狂わんばかり。鼻もなければ出世にもさしつかえる、早く探し出さねば。さて、そんななかコワリョフは鼻と遭遇し、会話を交わす、なんと鼻は、羽のついた帽子をかぶり、金糸の刺繍の入った制服を着て、立派に仕事をこなしているのだった!?? しかも鼻は言う、「なにかのおまちがいでしょう、わたしはわたしですよ、われわれのあいだにはいかなる接点もない」(なにがなんだかわからない展開だが、とにかくそういうことなのである、この小説内現実においては)。困り果てたコワリョフは新聞に個人広告まで出そうとしたけど、それも断られる。
さて、鼻はどうなってしまうのか? この話、ある日(脈絡なく、なんの説明もなく、突然)決着を見る。(なんだよ突然に、辻褄合わせもなく、いかにもご都合主義な展開だが、とにかくそういうことなのである、この小説内現実においては)。すごいねぇ、なんでもあり、悪夢のようなはなし。
さて、『外套』の方はこんなはなし。平凡で貧乏な下級公務員アカーキー・アカーキエヴィチ・バシマチキン。ちんちくりんで赤毛、頭にちいさなハゲがある、顔にはあばたがあって、顔色も悪く痔瘻らしい。中年男。かれの仕事は文書の筆写。かれは自分の仕事筆写が大好きで、文字はきれい、誤字脱字もない。かれはある種の文字がお気に入り、そういう文字にでくわすというと、もう我を忘れて、にやにや笑ったりめくばせをしたり、唇までうれしそう。趣味はなく、着るものにもおかまいなし、コートはもうぼろぼろ。ロシアの冬は寒い。
ある日、仕立屋にコートの修繕を依頼しようとしたところ、仕立屋の主人ペトローヴィチは答えた、旦那、こりゃ、もはやつくろいきれませんよ。しかもペトローヴィチはコートの値をえらく高くふっかけた。(ペトローヴィチはふだんは酔っ払いで気のいい職人なんだけど、この日はどういうわけだかシラフ、虫のいどころが悪く、アカーキー・アカーキエヴィチをカモにしたのだった。)アカーキー・アカーキエヴィチはその値段におののいた、とてもじゃないけど払えない、しかしどうにも修繕が効かないという主人に押し切られる形で、コートの新調を承諾してしまう。それからというものかれはお茶を控え、ローソクをともすのをやめ、砂利道を歩くときは靴底が減らないように気遣い、下着の洗濯も節約する、ひもじさだってなんのその。いつのまにかこれから出来上がるコートがかれの心のなかでは未来の理念になって、その精神の糧で、かれは空腹に耐え、暮らしている。さぁ、その夢にまでみたコートが出来上がった。アカーキー・アカーキエヴィチ、うれしくってたまらない、幸福の絶頂。ところがその晩・・・と、ここから先は物語は不穏に転調し、リアリズム文学は不気味な幻想文学へと飛翔してゆくのだった。