どう? たのしめそう? けったいなはなしだねぇ。おれにはすごくおもしろかったよ。ゴーゴリは、学生時代のひょうきん者、いちびり、コメディアン体質そのもの。かわらないものだねぇ、人間って。『鼻』は二十五歳のときの作品。これ、もしかしておちんちんのはなしなんじゃないの!?? (1)男ってああ見えてデリケートだからちょっとしたことで勃たなくなっちゃったりするものね、もしかしてあのはなしもある日、とつぜん勃たなくなった男が、うろたえて、だれかの陰謀じゃないか、なんて呪ったりして、でもある日とつぜんまた勃つようになって、めでたしめでたし、っていうはなしなんじゃないの、って勘ぐったり。
とかなんとか調子のいいことをつい書いちゃったけれど、でも、ほんとうは『鼻』がなんの象徴であるかなんて、永遠の謎であって、正解なんて存在しない。そこがいい。せいぜいもっとざっくり〈実存の不安の象徴〉ってことでいいのかもね。そういえば芥川がゴーゴリの『鼻』を自分の作品で『鼻』と『芋粥』に翻案してるね、いかにも前髪ぱらりんな、悩みのポーズが似合う芥川「実存の不安」龍之介らしい。
『外套』もいいね。骨組になってる小咄はたんじゅんなんだけど、細部がいちいちおもわせぶりでいい。どうも主人公の苗字のバシマチキンってのは短靴(バシマク)に由来してるらしいんだけど、(もちろんそこには〈みんなに踏みつけられる男〉っていう残酷な比喩がひそんでいる)、そのくせバシマチキンの一族は、長靴ばっかりはいていた、なんて描写が入る、なんかおかしい。ほのぼのしてるんだ。それからまた、アカーキー・アカーキエヴィチっていうへんてこりんな韻を踏んだ名前が、じつは親父と同じ名前なの。なんでかっていうと、両親は生まれてくるわが子のためにいろんな名前をいっぱい考えたんだけど、けっきょく、めんどくさいから親父と同じ名前にしちゃえ、ってつけられたっていうわけ。〈親父と同じ名前をつけられた男〉、そして仕事は文章の筆写。英語でいえばhand-copying。そういうところにもね、詩的なユーモアがあるじゃないの。またこのアカーキー・アカーキエヴィチが自分の仕事、文書の筆写をいかに愛してるかもまた、切々と書かれていて、そこにはちょっとボルヘス的な隠喩を感じる。それからまた必殺の一行、「かれはやがて出来上がる外套という未来の理念(イデア)を心に抱いて、いわば精神の糧で自身を養っていたのである」ってのもすばらしいね。という具合に、この『外套』はいっけんしたところでは、ナンセンス・コメディなんだけれど、そこにひそかに文学マニアをよろこばせる細部が数限りなく畳み込まれている。どう? ゴーゴリ、おもしろいねぇ
せっかくだからゴーゴリの評伝的な話もしようか。ゴーゴリって、いかにも幼年期に人生を決定づけちゃったんじゃないかしら。まずね、おかあさんがふしぎな人でね、なにしろ信心深い、もう毎日何回もイコンにひざまずいてお祈りする、そんな人。おかあさんはちっちゃなゴーゴリにいろんなおはなしをする、一方でまじめでみんなのことをおもって良いおこないを積んだ人は、死んでからも夢のようにすばらしいしあわせを味わえるの、なんてことをうっとり語ったかとおもえば、他方で、でもね、生きてるうちに遊びほうけていたり、他人の物を盗んだり、誰かを傷つけたり、悲しませたり、他人の人生に取り返しのつかない過ちをしでかしたり、それから神様を軽んじたりした人は、死んだ後に怖い怖い地獄のような責め苦を味わうことになるの。おかあさんは、そんな調子でちっちゃいゴーゴリにえらく雄弁に語っちゃう。コドモのゴーゴリは夜、毛布にくるまってからもおかあさんのしてくれたはなしをおもいだしちゃって、しかもおもいだすのは怖いはなしばっかりで、眠ってからも夢にまで出てきちゃって、うんうんうなされて、寝汗かいてたりする。それからまたゴーゴリのおばあちゃんも、おはなし好きで怪談とかホラーものみたいな物語をいっぱい知っていて、そういうのが大好き。ちっちゃなゴーゴリに、怖い怖い話をして、孫を怖がらせて、たのしんでる。ゴーゴリはそういう環境で育ったの。あと、ゴーゴリのコドモ時代で重要なことはおとうさんがアマチュア劇団の戯曲書いてて、せりふをじっさいの俳優が演じることのおもしろさに、コドモごころにドキドキした、なんてはなしもある。