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月と六ペンス

レビュワー/朱雀正道

『月と六ペンス』はこれまで、ふたつの読み方で読まれてきた。ひとつの読み方は、芸術に憑かれ、家庭も社会も捨て、病と貧困に没しながらも、没後に栄光を獲得した芸術家を描いた寓話として。もうひとつの読み方は、この作品を、モームのタヒチにおける諜報活動の副産物として。(なるほどタヒチは、第一次世界大戦の時期においてヨーロッパとアメリカが鵜の目鷹の目で奪い合う、地政学上重要な場所であり、しかも当時のナチスドイツの動向は、イギリスにとって要注意だった)。ふたつの見方はいずれももっともであるものの、しかしここでは、第三の解釈を示そう。モームにとってこの小説がはじめて、小説家=スパイとしての小説になったこと。そしてこの小説のなかには、さまざまにスパイの隠喩がちりばめられていること、そこに着目してみよう。

まず『月と六ペンス』において、語り手の〈わたし〉は、スパイと変わらない存在である。かれは画家の軌跡をたどり、情報を収集し、分析し、本人と議論を交わし、主人公の没後のタヒチに赴き、生前のかれの情報を集め、解釈し、しかもそれらの情報をかつてのかれの家族に伝えさえする。

次にモームは、この作品において、ゴーギャンの人生の骨格を活かして主人公を造型しながら、ただし、主人公の細部にはさまざまな変更を加える。はたしてその操作が文学的効果につながっているかどうかは議論の分かれるところだけれど、しかしこの情報操作こそが、モームにおいて(この作品に限らず)重要である。それが証拠に、ほんらいならば厳しく峻別されるはずのフィクションとノンフィクションが、モームにおいてのみは連続性の相のもとにあって、事実もまた操作対象になっているのである。(もっとも日本では私小説のようなどくとくのジャンルが存在したため、フィクションとノンフィクションの相互乗り入れにはさほど違和感がないかもしれないが、しかしヨーロッパやアメリカにおいて)、モームの態度はいかにも特異である。たとえばカポーティが、一方で小説『ティファニーで朝食を』を書き、他方でノンフィクション・ノヴェルとして『冷血』も書いたこととは、まるで違う。

しかも、『月と六ペンス』で描かれている世界は、アートという商品の価格の根拠のない不安定をめぐるコメディでもある。生前はまったく値段のつかなかったタダ同然の作品が、画家の没後のある日、なにかをきっかけに価格高騰を引き起こし、あげくの果てに全作品は想像を絶する価値を手に入れ、画家は最大級の名誉を獲得してゆく。(きょくたんにいえば、『月と六ペンス』はそれこそ同時代人だったマルセル・デュシャンに相通じるユーモアをそなえている)。モームはあきらかにそのような事態をおもしろがっている。では、いったいモームにとって、アートのどこがおもしろいのか。それはおそらくアートが株式市況さながら、価格が上がりもすれば下がりもする、そんな価値の不安定性こそがおもしろいのではないだろうか。そう、アートもまた情報社会の鬼っ子、(若かった日のモームには、ボヘミアンへのあこがれとしてあったアートも)、スパイになったモームは、諜報部員の目でアートを眺め、根拠があやふやなまま価格が大きく増減するさまに、関心をいだいたのではないだろうか。

語り手の〈わたし〉は、傍若無人な主人公が芸術にとりつかれ、家族を社会を棄て、無一文になりながら堂々と信念を貫き通すさまに、いちおう奇異の念を表明し、その社会的無責任を叱責し、反省をうながしはする。(もっともすべての努力は、この信念の人であるところの主人公をまえにしては、まったく無駄な努力に終るのだが。)しかし読者はよくよく読み込んでゆくと気がつくだろう、そういった語り手のモラルの代弁者の顔はすべてマスクにすぎない、そのマスクの影で〈わたし〉は、主人公に隠しきれない共感を示している。主人公スリックランドは、モームの性的ファンタズムの投影ではないだろうか。

モームの生涯を眺めてみよう。モームはフランス生まれのイギリス人として、パリのイギリス大使館つきの弁護士の息子のひとりとして生まれたものの、八歳で母が死に、十歳で父が死に、モームは孤児になった。モームはイギリスの牧師の叔父に預けられたのだが、この叔父との関係はモームを苦しめたようだ。しかもかれには吃音癖があり、その上フランス語なまりの英語が、学校でからかいの対象になった。モームはいじけた少年時代を送った。

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