イギリス人がケニヤに鉄道を敷いてからというもの、ヨーロッパ人の入植者がやって来て、原住民から土地を取り上げ、原住民を大量につかって、コーヒー園をはじめた。入植白人の多くは貴族であり、農園は多くの黒人労働者たちに働かせ、自分たちは猛獣狩りに熱を上げた。そんな時代のはなしである、したがってディネセンの『アフリカの日々』(1937年)を読むことは、なかなかどうして、読者の知性が試される過酷な体験である。なるほどディネセンの散文からは〈アフリカを賛美する善意の白人農園主〉という著者像が浮かんではくる。とはいえいかに彼女に原住民への賛美と善意があろうともそれらはまた搾取や差別と渾然一体になっていて、容易にはほどけない。現代の読者は、どう反応したらいいのか判断を保留にしたまま、この美しくも不穏な散文を追いかけてゆくことになる。
この作品は、帝国主義と性的ファンタズムの交差する地平で書かれているようにおもえてならない。順を追って考察してゆこう。おはなしはこんなふうにはじまる、「私はアフリカに農園を持っていた。ンゴング丘陵のふもとに。この高地の百マイル北を赤道が横切り、農園は海抜六千フィートを越える位置にあった。昼間は太陽の近くまで高く登ったような気がするが、明けがたと夕暮れは涼しくやすらかで、そして夜は冷えびえとしていた。」
そしてディネセンの散文は語りはじめる、「すべてが焼け乾いていて、素焼きのやきものの色をしている、木々は薄く繊細な葉をつけ、枝のつくるかたちは水平にいくつもの層をなす、孤立して生えている木は、こうした形のせいで、いくつもの掌をひろげているように見え、帆を広げた船のように勇ましくロマンティックに見える」・・・。彼女はアフリカの空気を賛美し、雲を褒め称え、蜃気楼を愛で、そしてその賞賛の段落を締めくくるにあたって次のような言葉を記す、「この高地で朝、目がさめてまず心にうかぶこと、それは、この地こそ自分の居る場所なのだというよろこびである。」.
この地こそ自分の居る場所なのだ! 著者は審美的発言として書いているつもりだろう、ただしそれを読む現在の読者はそこに、入植者の不遜をも聞き取るほかない。
「私は六千エーカーの土地をもっていたので、コーヒー園以外にかなり空き地があった。農園の一部は自然林で、一千エーカーほどが借地、いわゆるシャンバになっていた。借地人は土地の人で、白人の農園の中で何エーカーかを家族ともども耕作し、借地賃代わりに、年に何日か農園主のために働く。私のところの借地人たちはこの関係について別の見方をしていたと思う。彼らのほうでは私のことを、自分たちの領地に寄生する上流借地人と見なしていたふしがある。」
読者はおもうに違いない、ふしがあるもなにも、著者は文字通りかれらの領地に寄生している。しかしこの恬淡として恥じるところのない堂々たる態度こそが、植民地時代の白人の時代精神なのだろう。
彼女が雇ったカマンテという料理人についての描写にもすごいものがある。カマンテは大変な数にのぼる料理法をそらでおぼえていて、カマンテは英語が理解できないので、ディネセンがすべて一回教える、それをカマンテはその料理を覚えた日の出来事に結びつけて覚える、「木に雷が落ちたソース」とか、「灰色の馬が死んだソース」という具合に。かわいらしいエピソードであり、またディネセンはカマンテの料理人としての才を賛美してやまない、ただしこんなコメントつきなのである。「カマンテは焼き芋とか羊の脂身のかたまりといったキクユ族のごちそうを食べさせようとする。長く人間と生活をともにしてその暮らしに同化した犬でも、骨をくわえてきて人間に贈ろうとするではないか。」
と同時にディネセンは、熱心な教育者でもあって、たとえば農園の現地人たちのために夜学をひらき、読み書きを、ABCを教えもするのだ。もっとも彼女の母国デンマークでも庶民の識字率がたかまったのはたかだか百年まえなのだ、(と彼女はおもう)。彼女にとってケニアの現地人に読み書きを教えてゆくことは、彼女の精神生活の支柱であったという。また彼女は、土地の人のために『イソップ物語』をスワヒリ語に翻訳しさえするのだ、出版にはいたらなかったそうだけれど。