実家に帰る車中のお供を本屋で物色していたら、ひときわ平台に山積みになっている本に目がとまった。こういうパッと本と目が合う瞬間というか、吸い込まれる瞬間というのは、大げさかもしれないが、邂逅ともいうべき喜びがある。
『氷の華』――タイトルの字面が綺麗。しかも帯には「米倉涼子がドラマで悪女復活!」とあった。米倉涼子は演技力はさておき、美貌と抜群のプロポーション、ある種のふてぶてしさみたいなものが圧倒的な存在感とスター性を放っていて、私の好きな女優である。ついこの間、9月6・7日にテレビ朝日系列でドラマスペシャルとして放映されたので、ご覧になられたみなさまも多いことであろう。その原作が本書である。
設定はスノッブながらも華やか。金銭的に恵まれた夫婦、風格のある日本家屋、互いに何よりも見栄を大事にする夫と妻――日常の殺意も面白いものだが、自身の環境とかけ離れた世界を読む魅力も大きい。
称賛は求めるが、批判は一切受け付けない。人にどう見られているかが何よりも大事、どんな時にも自分を優位な立場に置こうとする。
また絶えず現状に不満を持ち、何かに喜びを見つけるよりも、足りないことにのみ目がいってしまう――というタイプの主人公・恭子の高慢な性格も、実際に近くにいたら嫌な女だが、人物ディテールとしては面白く、その高慢さが本書のカギともなっている。
しかし…前述したようにメディア的には華々しい売り出しの本書だが、著者名を見ても初めて知る名前だ。誰なのだろうか。そう思うのも当然のことで、裏のあらすじから著者の経歴書を読んで驚いた。六十代の女性のデビュー作であること、また当初は自費出版として世に出たこと…華やかなミステリ仕立ての本書からすると、一見地味な印象を受けた。
のちに知ったことだが、もともとは幼稚園の教諭から幼児教育の分野で活躍してきたという筆者。根っからの本好きが高じて、還暦を四年後に控えたある日に決意する。「人間が人間を描くことの醍醐味を感じさせる推理小説」を書きたいと筆を執った。しかしながら文学賞へ応募したものの酷評、それを自費出版という形で1000部出版し、じりじりと火がついたという、まさに読者の人気に支えられた、底力を秘めた本だった。
主人公・恭子の殺意は、夫の海外出張中、一本の電話で火がつけられた。電話の主は「夫の愛人」を名乗る女からだった。
妊娠六か月で出張から戻ったら夫はあなたと離婚話をするつもりだ――蓮っ葉な口調でキンキンとまくし立てる。 その女は第三者では知ることのできない夫婦間の問題まで細かく知っていた。
母性に乏しいように思われる恭子だが、不妊治療で苦しんだ過去をもっており、浮気は許せても妊娠は殺意を抱くに十分な出来事だったようだ。
「離婚をきりだされてはならない」――夫の出張中に彼の子供を身籠ったという不倫相手を殺さなければ、とその日のうちに毒殺してしまうが、死体が見つかり、事件が露見したというのに、その女が妊娠していたという報道が一向にされない。しかも殺した相手は見栄っ張りな夫が好んで付き合うタイプではないような、顔も美人ではないし服装もいたって地味な女だった。
間違えた?人違いだった?それとも誰かに嵌められた?もっと狡猾な第三者がいた?――恭子の思考は錯綜する。二転三転する状況も読みごたえの一つだ。
殺害した女の正体は?誰が仕掛けたのか?その動機は何なのか?――様々な事情が明らかになる。日常のひそかな殺意というよりは、劇場で舞台を見るようなストーリー展開である。
完全犯罪なるか?隋所に半ば賭けに近い行動が効を奏すあたりは、少々都合よい感は否めないものの、丁寧に書き込んだ伏線には、数万ピースもあるジグソーパズルがはまっていくような快感がある。
ストーリーは濃密で、展開は息もつかせない。ベテラン刑事・戸田は執念で恭子を追う。逃げ切れるかと思ったが追い詰められる恭子。読み進めていくうちにその攻防のなかで、一見不利に見えた恭子のアリバイが、オセロの碁石がある一瞬でパタパタとひっくり返るように、有利に転じていくのは圧巻だ。
人から見たら誰もが羨むような世界ながらも、埋められぬ渇望感と強い自意識が自らの進む道を誤らせたのかもしれないが、あまりにも生きづらい恭子の生き方。ラストの恭子の様子は、何かしら満足げな様子だが、そこには何か悲しい性も漂っている。