戦後間もなく創業したという東京都内の老舗居酒屋は、入り口のガラス戸を引くと、1辺に5席ずつ等分に配されたコの字形のカウンターが「待ってました」とばかりに真正面から目に飛び込んでくる。
私はなぜか、ことのほか「コの字形」に心を奪われる傾向があって、コの字形カウンターだけの名店を集めた居酒屋ガイドがないものだろうかと、一度探してみたことがある。それはともかく、ここの真四角をなす端正な面持ちのカウンターで独酌をする気分といったらない。
しかし、唯一難点があるといえば、そのカウンターの中に差し渡しが1メートルはありそうな巨大な液晶テレビ(よくある横長の、きっと地デジ対応)が掲げられていることだ。歴史に磨かれた白木のなめらかさと、「笑い」を押し付けるバラエティー番組のかさかさした感じはどうにも不釣り合いだ。大画面で色彩が鮮やかな分、余計に白々しく映る。昔からトイレの電球はせいぜい40ワットと決まっているのだ。
惜しい……と私は思うのだが、かといって、居酒屋には絶対テレビを置くなという意見には賛成しない。都内城北の、安さと品を兼ね備えた名店には、隅の高いところにせいぜい20型くらいの大きさのブラウン管テレビが置いてある。「相撲とプロ野球があるときだけは、つけるの」と女将さんが言う。そう、居酒屋とプロ野球は相性がいい。独酌の楽しみは「自己との対話」というと大げさだが、つまりアルコールに刺激されてわいてくる、心の中のあれやこれやにただひたって時間を過ごすことである(というようなことを批評家の吉田健一が書いている)。
酒を飲むと頭の回転が非常に速くなり、誰も思いつかなかったアイデアが次々と想起され、「やはり俺様は天才だ」と感じることがよくあるが、これはまったく逆で、酔って頭の回転が鈍くなったから、低レベルの思いつきにいちいち感動しているだけのことだ。年をとって月日が早く過ぎるように思うのは、自分の肉体的、精神的スピードが年々落ちるからというのと同じで、相対的効果にすぎない。
それではまったく無駄なことをしているのかといえば、もちろんそんなことはなくて、人生の残り時間が加速度的に減っていくと恐れるからこそ、世の哀れに敏感になってヘボ俳句の一つもひねろうという気になるのと同じで、狭いカウンター席で隣の客と肩をくっつけ合い、プレスハムに衣をつけて揚げたり、魚肉ソーセージを炒めてマヨネーズをかけたものをかじる、そんな「何もわざわざ金払って……」と言われるような行為を実に愉快だと錯覚させるのが、酒の力なのである。
そして、この悪く言えばネジが1本抜けた頭のリズムに合うのが、プロ野球中継だ。投球の合間につまみをつつき、杯を傾け、「ほうツースリーか。ツースリーというと、フルカウントだな。次が勝負だ」と無意味なことをつぶやいて、一人で楽しんでいられる。
ところがサッカー中継だと、こうはいかない。サッカーは一瞬目を離したすきに点が入ったりする。自然、手元が留守になる。それではつまみも酒も進まないので、店は困る。前出の名店がテレビは「相撲とプロ野球」に限る理由も、このへんにありそうだ(ちなみに相撲は野球の間合いに付いていかれない客のためだろう。相撲は立ち合いの間が4分ある=幕内の場合)。