映画『ブラインドネス』が、11月22日から公開される。監督は、『シティ・オブ・ゴッド』『ナイロビの蜂』のフェルナンド・メイレレスで、日本から伊勢谷友介、木村佳乃らがキャストとして参加している僕のいま一番気になっている映画である。
原作はポルトガル語圏の作家としてはじめてノーベル文学賞を受けたジョゼ・サラマーゴの『白の闇』。とても面白い本である。はじめて読んだのは5年ほど前だが、ほぼひと晩で読み終えた。400ページ近い分厚い本だけれど、巻置くにあたわずの面白さだった。映画を観る前に、ぜひ読んでもらいたくて、押っ取り刀でご紹介することにした。
サラマーゴは1998年、御年76歳(87歳で受賞したドリス・レッシングには及ばないけれど、かなり高齢)でノーベル賞を受賞している。その授賞理由をスウェーデン王立アカデミーは「想像力、あわれみ、アイロニーに支えられた寓意によって、われわれが捉えにくい現実を描いた」と評言している。これはまさに『白の闇』に対する評言そのものではないか。少なくとも僕の読後感とこの評言は重なる部分があった。
物語は、信号待ちをしているクルマの中で、ある男が突然失明するところからはじまる。それは視界がまっ白になる病気で、原因不明のまま、伝染病のように感染は広がり、やがて国中の人々が白い闇に包まれていく。登場人物に名前は与えられておらず、「医者の妻」「サングラスの娘」「最初に失明した男」「黒い眼帯の老人」などと示されるだけで、ここにもある種の象徴が埋め込まれている点に注意を払う必要がある。
政府はかつての精神病院を収容所に、患者の隔離をはじめる。病院は軍隊によって監視され、逃げ出すものは容赦なく射殺されてゆく。兵士たちは失明の恐怖に怯え、収容者でふくれあがる病院内では、秩序はあっけなく崩壊し、グロテスクな人間の暗部がむきだしにされ、院内は足の踏み場もないほど汚物にまみれてゆく。
ほどなくして軍隊によって病院内に搬入されているはずの食糧が誰かの手によって隠匿され、やがて収容者は飢餓に陥っていく。食糧を横領していたのは、「首領」一味で、どこかから手に入れた銃で武装し、暴力で支配をもくろむ。首領一味は食べ物が欲しければ、金品を差し出せ、さもなければ女を差し出せと迫る。一人の女が立ち上がる。女は「医者の妻」で、彼女だけがなぜか失明を免れている。彼女は夫に付き添い、この病院へとやって来たのだ。混乱を避けるために、目が見えることを隠しながら…。彼女はハサミを手に、欲望の処理に余念のない「首領」一味の男どもにハサミを振り下ろす…。
混沌と暴力に縁取られた中盤に差し掛かろうとするこのあたりから物語は新たな展開をみせるのだが、筋についてはこのくらいで控えておこう。
本書は、物語の類似性からカミュの『ペスト』や、ゴールディングの『蝿の王』と比較されて語られることが多く、実際この2作品を例に引いて書かれた批評も書かれているらしい。僕はそれに加えるに、安部公房の諸作品、カフカの『城』やクッツェーの『夷狄を待ちながら』をなんとなく引き寄せて読んだ。
サラマーゴはこの物語を着想した時、レストランで食事をしていて、「もしわれわれ全員が失明したらどうなる?」という問いが閃いたという。だが次の瞬間には「だけど、われわれは実際にはみんな盲目じゃないか」と考えた。
国家の無責任さ、不正に対して見て見ぬ振りをする市民の姿勢や、拝金主義に堕し、欲望に溺れてゆく人々、それも広義の意味でいえば「盲目」だろう。われわれは実際、国家や組織の中に身を置きながら、「国家」や「組織」が見えていない。カフカが『城』で描いたように、われわれに認知できるのは、現象の断片だけであり、その全体は杳として全貌を現すことのない夜暗に横たわる「城」そのものなのである。サラマーゴが問いかけようとしたことは、観念的に要約すればそのようなことになるだろう。
だがサラマーゴがカフカと決定的に違っているのは、ボルヘス的にいえばカフカは『城』において飛んでいる矢をひたすら描いたのに反して、的に向けて正確に弓矢を放ち、決して的を見失うことなく書き終えた、という点である。寓意に彩られた物語には綻びがなく、ずしりとくる教訓すらある。
それはサラマーゴの経歴と決して無関係ではないだろう。サラマーゴは1922年ポルトガルのリスボン郊外で生まれ、高等中学を中退したのち、工業学校で学び、溶接工、公務員などさまざまな職業を経験している。その間にポルトガル共産党員となり、70年代の中頃から新聞社の副主幹としてジャーナリスト活動をはじめたものの、政治的な理由でその職を追われた。そして念願だった小説を書きはじめたのが、齢50歳を越えてからという、作家としてはかなり遅いスタートだった。爾来、吹きこぼれるように『修道院回想録』(而立書房)、『リカルド・レイス死の年』(彩流社)、『あらゆる名前』(彩流社)、『見知らぬ島への扉』(アーティストハウス)など、次々と傑作を書いている。