生物の歴史のなかで、いつ・どこで・どんなのが一番最初に魚から両生類になったか? 最初に二本脚で歩いた人はだれか? というようなことに果てしなく興味がある。
単細胞から複数の細胞が集まった生き物になっていくあたりも面白いのだけれど、そのあたりの話は「生物としての個性を持たない」ので、あまりワクワクしない。
今年の春、人間の遙かなる先祖はナメクジウオであるとわかった、というニュースが流れたけれど、関心の無い人にはそんなことはどうでもいいのだが、単細胞からヒトまでたどることが楽しい人間にとっては、ほほぉナメクジウオだったか、となる。ウオとはいっても、まだ魚ではないんだけれどね、あれは。
さて、この本の著者であるニール・シュービンは、魚から両生類へ、水から陸へ生き物が進出し始めた頃の化石を見つけようとしている学者。魚の鰭が両生類・爬虫類の脚になっていく中間種を発見しようとしている。
そういう生き物がいるはずなんだよね、考えてみれば。一気に魚が両生類になったわけではないから、まだ鱗を残しぬるっとしていながら、鰭ではなく脚といっていい形になりかけてる奴。胸びれが、脱ぎかけの靴下風で、浅い水辺を明らかに這っているような生き物の化石を見つけてやろうじゃないの、と作戦を立てている。
それに関して、読者に「化石というのは、ただ闇雲に発掘し探していると思っている人が多いようだけれどそうじゃないんだよ」と教えてくれる。
ごくごく初期の両生類や爬虫類の化石が見つかる地層より下、つまりそれよりは古い時代の地層と、まだ魚である生き物の化石ばかりが見つかる層の一番上のあたりにそれはいるはずという。
なるほど、納得。
つまり、3億7500万年前あたりの地層を探すことで見つかるはず、とまずは年代を特定する。これまた納得。考え方はわかったけれど、その年代の地層が現在の地球上のどこに見つかるかを探すのは大変なんだと思う。
しかも、素人でもわかるけれど「魚と両生類の中間種が生きていた場所はどんな所だろう」と考えると、当然水辺でしょうに。その水辺で、泥や砂が徐々にたまるような環境だったところにできた堆積岩に(運がよければ)化石が含まれている可能性がある。あくまでも可能性があるのであって、きっとあるというものではない。
さらにそうした堆積層が地中深くにあるとか、海底にあるとなると、発掘が難しい。実際はできない。
だから、ニールは3億7500万年前の地層が露出していて発掘可能な所を探し、見つけ出した。それはなんと北緯約80度にある島なのだ。
その島での発掘、発見から、魚の鰭が両生類の前足になり、爬虫類、鳥類とたどり、ヒトはヒトになってきたのだが「おおもとの魚の鰭の構造を私たちヒト」はちゃんと受け継いでいると語り聞かせてくれる。
発掘中、明らかに魚の化石(鱗に覆われていて顔が縦長)だったり、もう両生類としての特徴(例えば、首が分かれていて、顔が扁平)を持つ生物の化石だったりすると、冷たい態度で「これじゃぁない!」という感じになっている。まだ魚でも、もう両生類でも、この博士には意味がないのだ。ああ、はっきり見つけようと思っているものが決まっている場合の発掘というのはそういうものなんだと教えられた。何でも化石が出てくれば「大切、発見」とはいかないわけだ。そういう発掘を6年以上続けたようだ。
進化の話、遺伝の話が山のように出てきてどれも面白い。私たちの手から肘までの骨の構造が、鳥、爬虫類、両生類、魚類とさかのぼって調べてみればずっと「共通」なのだ。本を読みながら、腕を伸ばして、これが魚の鰭だったか、と感心してしまう。人間の胎児が、進化の過程をなぞって生まれるというが、その一時期「やがて腕になるあたり」が、鰭のようになっている図や写真を見たことがあると思う。その辺の話もわかりやすくしてくれる。
遺伝や進化については、昨今DNAを調べ、コンピューターを徹底的に使用して解明していく方法があり、それが有効であることもわかっているが、この本の著者のように「魚と両生類の中間種」の化石を見つけたい。形として、ほら「こういうのがいたんだ」と遙か3億年以上前の川岸の土の中から外に出してやりたい、という話は果てしなく面白い。研究室ではなく、極寒のフィールドにキャンプして毎日堆積岩の上を這い回る。こういう学者の本は、大体面白い。
ずっと読んでいたいし、できればCGを駆使した画像を使い、ほら魚のこの骨が、両生類ではこうなって、私たちヒトの肘から来ているこの骨になったんだ、というような「良質の」ドキュメンタリー番組にして欲しい。
お笑いの雑談番組より、圧倒的に面白いと思うけれどなぁ。
著者の文章に沢山のユーモアが含まれていて、翻訳も上手なので科学講談と書いたが、途中で笑うような所がいくつもあって、優れた学者の語り口に引き込まれてしまう。良著です、ほんとうに。