「家でレコード・コレクションといっしょにいたいと思うのが、そんなにいけないことだろうか。レコード・コレクションは、切手を集めたり、ビール用コースターやアンティークの指ぬきを集めるのとはちょっとちがう。レコードの世界は、ぼくの住んでいる世界より、優しく、薄汚く、暴力的で、安らかで、彩りがあって、くだらなくて、危険で、ずっと愛にあふれている。歴史があり、地理があり、詩があり、そのほかに―音楽自体も含めて、学校で学んでおくべきだったものが、数えきれないほどある。」
今やイギリスでも屈指の人気作家となったニック・ホーンビィの出世作『ハイ・フィデリティ』には、レコード・マニアである主人公のそんな独白がある。原書の発売は95年で、日本では99年に訳出され、大きな話題となった。とりわけマニアックな洋楽ファンの間で重宝されたのは、小ネタとして頻繁に登場する音楽家や曲目が、彼らの琴線に触れたからだろう。あるいは中古レコード店を営む主人公ロブの殻に閉じこもりがちな環境やシニカルな生活態度が、いわゆるモラトリアム症候群を脱することの出来ない大人たちの共感を呼び寄せたのかもしれない。
舞台は90年代前半のノース・ロンドン。音楽好きが高じて、あまり儲かりもしない中古レコード店“チャンピオンシップ・ヴァイナル”を経営するロブが、過去の女性遍歴を次々と回想していくところから物語は始まる。中年に差し掛かった30代半ばの冴えない男による、過去の女の自己申告。はやこの時点で、主人公が現実と向き合うことよりもノスタルジックな過去に生きていることが露呈されている。またそれらを幾多の音楽が甘美に補完するのだから、ロブがビジネス街で株価に一喜一憂しているような立身出世タイプでないことは明白だろう。彼は自己批評の一環として、文中で次のような言い回しをしてもいる。「ぼくの知っているなかで最も不幸な人々とは、ポップ・ミュージックが何より好きな人々だ。ポップ・ミュージックが不幸の源であるかどうかは、わからない。しかし、彼らが不幸な人生を生きてきた時間よりずっと長いあいだ、悲しい歌を聞いてきたということだけは、ぼくにもわかっている。」
かくしてロブの人生に於ける価値基準には、常に音楽という物差しが用いられることになる。大衆受けする通俗的なヒット曲をとことん軽蔑し、ヴィンテージでマニアックなブルースやソウル音楽に生きがいを見出し、あるいは自主独立の精神を持ったパンク・ロックに肩入れしながら、店の仲間であるバリーやディックとともに、あらゆる種類の“トップ・ファイブ”ナンバーを競うように言い合うことが、主だった日常会話であったりするのだ。「どういう人間であるかではなく、何を聞いているかが大切」といった、いわばカタログ的な志向への特化である。
こうした偏狭なロブとしょっちゅう対立するのが、なぜか同棲相手となっているローラという将来性のある女性だ。ふとしたきっかけでロブと出会い、生活を共にする女性弁護士のローラは、もっと現実に向き合うように彼を諭すのだが、それぞれの道はなかなか重なることなく、平行線を保ったまま。しかし、このカップルの葛藤と超克こそは、本書の大きな軸となるものである。これでもかと盛り込まれる音楽という小道具につい目を奪われがちだが、この小説の主題は、放埒な青年期を終えたロブが、ローラの父親の死をきっかけとして、困難な現実へと立ち向かっていく姿にある。そのことを忘れてはなるまい。
つい偏狭な主人公と烙印を押してしまったが、ロブが実際はそれほどでもないことは、様々な局面から伺い知れる。娘への誕生日プレゼントとしてスティーヴィ・ワンダーの「アイ・ジャスト・コールド・トゥ・セイ・アイ・ラブ・ユー」を買いに来た年配の男性を罵倒するバリーを諌めたり、最も嫌いな曲のひとつであったピーター・フランプトンの「ベイビー、アイ・ラブ・ユア・ウェイ」をパブで歌う女性シンガーに心動かされたりする場面には、先のテーゼとは逆に「何を聞いているかではなく、どういう人間であるかが大切」という心の流れが感じ取れるから。
それにしても、ロブの行いに我が身を振り返るが如く感情移入する音楽好き、レコード・マニア諸氏は少なくないのではないだろうか。かくいう筆者自身もそうである。ふとしたきっかけで始まった嗜好なり価値基準が、いつの間にか自分史のなかで大きく巣食っていることを、もう後戻り出来なくなってしまったことを、ある日突然知る。そのことの喜びと悲しみ。価値と滑稽。ちなみに作者であるホーンビィは、自伝的な『ソングブック』(新潮文庫)に、彼が通り過ぎてきた音楽体験をまとめ上げている。『ハイ・フィデリティ』の副読本としても、ぜひ併読をお薦めしたい。