食事や唾液の嚥下で体内にとりこまれた空気が腸で化学反応をおこし、有臭無臭のガスとなって肛門から排出される生理現象――つまり、おなら。この物語は、主人公・オイレイが特大のそれをファンファーレがわりに鳴り響かせ、幕があく。
「オイレイは朝六時に目が覚めた。(…)自分でもびっくりするほどの爆音を次々にとどろかせた。ここティポタ国ではプープーと呼ばれる音だ。今回のは、エンジンをかけた直後のオートバイのような断続音だった。毎度のことだが自分のおならには驚かされる。しかも、あいかわらず臭い。」
このロケット弾的放屁によって読者のまえに現れ出でたオイレイが、「臀部で発火した炎が脳天に向かってまっすぐ突き刺さる」かのごときお尻の痛みを治療すべく、近代医学からアヤシイ民間療法までかたっぱしから試していく、というのがこの小説のストーリーなのだが、その治療法は尋常ではない。
妻がまず呼んだのは、患者への憑依こそ診察という霊媒師。ついで悪魔払いを行なう祈祷師が登場、鍼が打たれ、ホラ貝が奏でるメロディを聴けといわれ、焚き火のうえでお尻が蒸され、あげく、カルト教祖めいたヨガ行者に無理な姿勢をとらされ、肛門に口づけされる始末。度重なる治療の失敗を皆に知らせるように放屁は止まず、オイレイは村の名士らしからぬ罵詈雑言を吐きまくっている。
現代に悪魔祓いとは、これいかに? その疑問には、小説舞台である架空の島・ティポタ国の歴史が回答を与えてくれる。
ティポタは、フィジーやトンガといった南太平洋の島嶼国に連なり、他島と同様、一六世紀に西欧諸国の航海者によって「発見」され、一九世紀末までにはすべて植民地化されてしまった。経済的・軍事的なフロンティアとして彼らの利権争いに巻きこまれ、キリスト教が伝来し、特産物は強奪され、免疫のない病気が持ち込まれ、オセアニアの伝統社会は否応なしに近代化の道へ。ただし土着の神々を保護した部族もあり、文化・習慣・人種の多様化が進んだ。いまや独立国たるティポタにおいても、総合病院の外来待合より、土俗的な霊媒師や中国系の鍼療法師のもとへ多くの患者が押しかけるのはそのためだ。
西欧人相手の癒し系スパ・リゾートを開業したエセ「伝統医療士」に、オイレイの痔ろうが治せるはずはないが、その男は、「外貨獲得」というカンフル剤をティポタに打つことはできた。つまり本書は、ひとりの男の痔の治療法を通し、植民地政策が遺した文化的矛盾=引き裂かれた身体を、多方向から幾度となく浮かびあがらせていくのである。
さて、問題のオイレイの肛門は、最後に意外な様相を見せる。詳細は読んでからのお楽しみだが、大人数がフォーク・ダンスの要領で一列になって踊り、掛け声とともに前に立つひとのおしりに口づけする……?
あまりにナンセンスな話とあきれる向きもあろうが、そこには大いなるユーモアのほかに、びりりとした批評精神を垣間見ることができる。
その治療の提唱者はオイレイにこう説くのだ。
「世界平和に貢献するひとつの方法は、神のもとでは人間のあらゆる部分が美しく神聖であるという真理を広めることです。ここが、ほかのものとは無関係に見える個人的な問題と、地球規模の重大問題とが実際につながっているところなのです」と。
核を保有し、つねに睨みあうことが「平和維持」の意味するところとなったいま、他人のおしりに口づけすることで連帯せんとするこの「治療法」に、わたしたちがしばし心を奪われるのは間違いなのだろうか? そうは明言されていないが、フランス領として核実験場となり、まるで世界における肛門のようにタブー視されてきたムルロア環礁からの、真摯なる問いかけのように思えるのだが。