アメリカ南部の広大な土地の空気中には、手のつけられないほどの退屈が物質のように存在していて、その退屈が極点に達すると、人をして、不穏ななにかに走らせる。そんないかにもステレオタイプなイメージは、いったいなにに由来するんだろう、誰がつくりだしたんだろう? 『風と共に去りぬ』が描いた南北戦争の敗戦。カポーティが描いた世界の片隅でちいさく生きる老人と無力なコドモ。映画『イージーライダー』のラストで、いかれたよそ者を演じたピーター・フォンダのオートバイが、保守的で頑迷な赤ッ首の農夫に狙撃されて炎上するラストシーン。えんえん映し出されるからっぽの風景こそが主人公といわんばかりの映画『パリ、テキサス』・・・。そんな南部の陰気なイメージは、絵に描いたように幸福な『大草原の小さな家』や、陽気なドクター・ジョンのロックンロールや、ケンタッキーフライドチキンのコマーシャルが描く赤い夕日に照らされたいかにも幸福そうなアメリカン・ノスタルジーや、だだっ広い田舎に忽然と現われたシリコンヴァレーを知った後なおも、妙に生々しく生きている。そう、死にたくなるほどの退屈のなかにひそかに凶暴ななにかが潜在的に息づく南部。こうしたイメージは、いったい誰がつくりだしたんだろう? あるいはウィリアム・フォークナーだろうか?
不合理とわかっていながら、いつのまにかある観念にとりつかれ、その幻想にがんじがらめにされ、人は主体を奪われ、人生を翻弄されるにまかせてゆく、それがオブセッションである。そしてこの小説は、オブセッションによって書かれたオブセッショナルな小説であり、読者をオブセッションの世界へ引きずりこんでゆく。登場人物たちは誰もかれも、自分の想像力を縛りつけ方向づけている観念と必死に闘っているように見えるけれど、けっきょくは誰もみな自分にとりついた幻想に蝕まれ、敗れ去ってゆく。それどころかかれらを描くこの小説じたいもまたとりつかれている、<この土地は亡霊たちの棲まう場所であり、いま生きている連中も、いつかはみな亡霊になる日がくる>、そんな(負の磁場のような、過去に、吸い込まれてゆくが如き)強迫観念に。だが、それはこの小説に限ったことではなく、むしろ南北戦争の敗北以降の南部の人間は、誰もがそんな観念にとりつかれていたようだ。やめてくれよ、そんな語り方は、ゴシック・ホラーじゃあるまいし。うん、最初はおれもそうおもったよ。でもね、フォークナーを読んでいるうちに、いつしか現実と幻想の境目は消えていった。いや、むしろこうおもうようになった、南部では現実そのものが観念であり、幻想なんじゃないかってね。
いやぁ、ほんと執念深い、業の深い小説なんだ。冒頭から南北戦争の敗戦以来(物語上の「現在」まで)四十三年間も喪服を着つづけ、埃っぽい部屋に閉じこもって、ろくに外出すらしないミス・ローザ・コールドフィールドっていう婆さんが、とっくに死んでる(姉の旦那にあたる)サトペンって男への恨みつらみを、若いクェンティン青年相手にしゃべるしゃべるしゃべる。ほとんど洗脳なんだもの。ローザの婆さんに言わせれば、姉さんがあんな男と結婚したがために、一族は呪われてしまったんだ、と切々と訴えかける、若く無垢なクェンティンに。クェンティンもまた(自分の生まれるまえにとっくに済んじまったことなんだから、なにもそんなに執念深い婆さんに律儀につきあって業の深いはなしをまじめに聞かなくてもいいのに、とおもうんだけれど、しかしかれは)つい、聞いてしまう、それでもって、自分の土地、南部への愛憎の葛藤を深刻化させてゆく。もっとも、この小説におけるクェンティンの役割は、いわば推理小説の探偵の役どころであり(1)、同時に、「現代に生きる」読者代表でもある。そう、このクェンティンという人物の創造によってこの小説は、ふたつの時制を往還することになり、小説世界の奥行が増し、しかも<過去がある観念になって、後世の人間にとりつき、かれらの想像力を縛り、方向づけ、その生を蝕んでゆく>っていう、不穏な主題もまた巧く前景化できた。ざっくばらんにいえば『風と共に去りぬ』のような南北戦争ものの通俗小説(~ブロックバスター的ヒット映画)とは一線を画した、芸術的次元を獲得することになる、そのぶん読者はぐっと減ったわけだけれど。