それは、ギャランΣのCMでした。始まりはバックが海でドカンと大きな岩、コートを着た健さんのロングショット。アップになった後姿に「風来坊」というコピーが入る。そして、サングラスを掛けて運転をしている寡黙な表情。疾走するギャランΣ。そこに、健さんの声で「男は風です」というナレーションが入る。演出は、私も一緒に仕事をしたことのある野田昭さんというディレクター。今でも忘れられない健さんならではのCMを、この本を読み終えた後、久し振りにDVDで見返してみたのですが、やはり、痺れてしまいました。
ところで、私がナマ健さんにお会いしたのは、もう今から25年ほど昔、まだ広告業界にいてバリバリ仕事をしていた頃の話です。ある清涼飲料水のCMで森繁久弥さんを東宝で撮影していた時のこと、同じ日に撮影していた健さんが、御大がCM撮りをしているのを知り、私たちのスタジ才に挨拶にやって来たのであります。多分、『居酒屋兆治』を撮っていた時のことだったと思います。
健さんは、Gパンに白のTシャツ。黒の野球帽を被っていて、その帽子を取ると、篤く先輩に礼を尽くす感じで森繁御大に丁寧に一礼すると、「勉強させて貰います」などと、あの『唐獅子牡丹』の「死んで貰います」みたいに言うと、1カット撮り終わるまでその撮影を例の鋭い目でジッと見詰めていました。
そして、監督のカットの声が掛かると、ニッコリ微笑み「勉強になりました」と言って、一瞬テレたような御大に再び一礼すると、颯爽とスタジオを去って行ったのであります。その後姿には、風が吹き、オーラが出ており、ホント、カッコよかったのを今でも忘れません。
さて、この『あなたに褒められたくて』が出版されたのは、1993年。今からもう15年前のこと。『あ、うん』、『ミスター・ベースボール』と上映され、『四十七人の刺客』が世に出る前の頃のことであります。
「空がからっぽになってしまって、空気さえないみたいに、太陽ばかりが光り輝いています。作家の檀一雄さんは、ポルトガルから長女のふみさんに宛てて、こんな書き出しの手紙を書かれていた」
冒頭のエッセイ「宛名のない絵葉書」は、こんな檀一雄さんの話から始まっています。それから、檀一雄さんについてのドキュメンタリーを撮りたいという話を、九州の、あるディレクターが、健さんに持って来たというエピソードに続いていきます。
「なぜ、ぼくなんですか」
そう問うと、彼は、
「同県人であるということ、それから旅が好きだということ」
そこまではすらすらと言って、ちょっと言いよどんで、
「なんとなくその…、大変失礼ですが、世間で聞く高倉健という人のさすらいようが、なんとなく檀さんとダブッているように、ぼくには思えるんです」と。
「実は、すでにタイトルも決めてまして、檀さんのお書きになったもののどこかに、〈昔男ありき〉っていう一文があって、それをタイトルにしたいと思っています」
「昔男ありき…それを聞いたとき、ぼくはもうパッとなっちゃって…気持ちは、この仕事を引き受けてみようとしてたんです」
ということで、健さんはポルトガルに。ヨーロッパ大陸の最西端のロカ岬の村はずれのカフェで、夕陽が沈んでいくのを見ながら「宛名のない絵葉書」を書いた時の思いを綴ってくれるのです。そして、「内蒙古の赤ん坊」という項では、1990年に中国の内モンゴル自治区で開かれた、第14回日中映画祭を旅した時の思いを。「ロンドンからの電話」という項では、フランスでの旅の思いを。どれも、健さんならではの情感で…。
「今回のパリ行きは、蔵原惟繕監督の映画『海へ SEA YOU』の打ち合わせのためである。蔵原監督、シナリオの倉本聰、プロデューサー岡田、それにぼくと、それぞれにパリ入りし、まずは『海へ』のシノプシスを書いてもらったジョゼ・ジョバンニ氏(仏映画『冒険者たち』の原作者)に会うため」
と、健さんは、気がつけばいつも世界の何処かを旅しています。そんなちょっと風変わりでストイックなさすらい人生の中で出会った人々への思いを、ある時は、俳優・高倉健として、ある時は、私人、小田剛一(おだごういち)として、熱く、時には、しみじみと語ってくれているのです。
『冬の華』『駅 STATION』『居酒屋兆治』『夜叉』『あ・うん』の降旗康男監督、『幸福の黄色いハンカチ』『遙かなる山の呼び声』の山田洋次監督、『八甲田山』『動乱』『海峡』の森谷司郎監督、俳優の小林稔侍さん、マサカリ投法の村田兆治さん、カメラマンや美術スタッフ、大部屋の俳優さん、西表の漁師の青年、時計のアンティークショップ経営者、小学校の初恋の先生、高校時代の親友、叩き上げの床屋、居合い抜き名人、北極のインド人、オーストラリアのホースマン、『東路日記』という紀行文を残した小田宅子(いえこ)という先祖、そして、最後には、母親への思いを切々と…。
「僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけで、あなたがいやがっていた背中に刺青(ホリモノ)を描(い)れて、返り血浴びて、さいはての『網走番外地』、『幸福の黄色いハンカチ』の夕張炭鉱、雪の『八甲田山』、北極、南極、アラスカ、アフリカまで、三十数年駆け続けてこれました」と、締め括っています。
この最後の項では、撮影で母親の葬儀に出られなくて、後日、故郷の墓に参ると、子供の頃の思い出が走馬灯のように駆け巡って、気がつくと、いつの間にか出て来た乳白色の靄(もや)で供えた都忘れの花が雫(しずく)に濡れて…と、まるで映画の1シーンを観るような感動的な情景も綴られていました。
『四十七人の刺客』の後は、『鉄道員(ぽっぽや)』(1999年)、『ホタル』(2001年)、『単騎、千里を走る』(2005年、中国映画)と撮り、今は、一体どんな旅をしているのでしょうか。これからも高倉健という人のさすらいようが気になってなりません。―ひとつの熱い思いが、更なる熱い思いを呼ぶ、そんな健さんならではの、これは「そこに男ありき」のエッセイ集です。