先日、私は、友人の絵画の個展を見に、横浜の港が見える丘公園のすぐ近くにある岩崎ミュージアムに出掛けて行きました。帰りには外人墓地を漫(そぞろ)ろ見ながら坂道を元町へと降りて行き、中華街でゆっくり食事を楽しみました。エキゾチック・タウン、港ヨコハマ。女優・岸惠子は、この世界に続く港町の生まれなのであります。
「羽田空港からロンドンヘ向けて発ったのは、一九五五年の大晦日。私はとても若く、はじめてのヨーロッパヘ一人で旅立つ、という当時にしては法外な冒険に興奮していた。南回航路で日本からロンドンまで五十時間!
太陽と共にゆったりと、東から西へと移行するプロペラ機は、七つの国へ降り、七つの初日の出を見た。パリヘ着いたときには、翌年の一月二日になっていた。
『風は知らない』という英国映画のヒロインに抜擢され、デヴィッド・リーン監督の要請で英語をマスターするため、四、五ヵ月間の留学生活を送る目的ではあったが、我儘を言ってパリに二、三日の途中下車をした。
当時の若者の例に漏れず、私もレマルク著『凱旋門』に夢中だったのだ。
その日、パリには雪が降っていた。大きなぼたん雪だった。」
これは、この『30年の物語』のプロローグです。1955年というから今から55年前、岸惠子さん23歳の時。それから2年後、作家・川端康成の立会いのもと、フランス人映画監督イヴ・シャンピ(Yves Ciampi)と結婚し、パリに住むようになるのです。
そして、この物語の冒頭の「影絵の中のジャン・コクトオ」では、詩人コクトオの舞台演出としての遺作となった『影絵―濡れ衣の妻』の主役に抜擢されたものの、貧しかった当時の日本には外貨がなく、個人的旅行は禁じられていて、この舞台を観てくれたのはたった五人の日本人だったという思い出が語られています。その時の1人、作家、故・三島由紀夫が、日本の女優がコクトオ演出の芝居で、コンセルヴァトワール出身の俳優たちを圧して主役を演じた、立派に演じた、とおっしゃって眼に涙を浮かべたという逸話には心を打たれました。
こうしたことを読むほどに岸惠子という人は、昭和を代表する押しも押されもせぬ国際女優だということを改めて思い知らされたのであります。この本は、1999年11月といいますから、今から、9年前の刊行。「追悼(オマージュ)」という項では、俳優、鶴田浩二さんとの愛の軌跡が、「ラスト・シーン」という項では、私が彼女の映画では一番好きな、女囚を演じ、ショーケンが共演した『約束』という映画の記憶が語られています。他に、パリの「五月革命」や「プラハの春」のこと、国連人口基金親善大使としてヴェトナムを訪れた時のこと、島国・日本と、大陸・ヨーロッパとの文化の大きな違いのこと、等々…。
12の物語が、それは知的で、とても素敵な筆致で語られています。
パリでの、イヴ・シャンピ監督の妻としての暮らしの回想では、キラ星のごときフランスの作家たち、アンドレ・マルロオ、サルトル、ド・ボーヴォワール、レイモン・クノー。第一線のジャーナリストたち、そして映画スターでありながら、積極的に政治的な立場を表明し、共産党に入党(当時)して過激な発言も憚(はばか)らなかったというイヴ・モンタンとシモーヌ・シニョレ夫妻のことが語られていると思えば、「影を失くした男たち」の項では、影のない、存在感の希薄な日本人のことを、真剣に見詰めています。