『悼む人』というタイトルは、なんだか重いなと思った。本文の中で「悼む」という言葉が最初に登場するのは、プロローグの3頁めから4頁めにかけてである。
「『何をしているんですか』
思わず言葉をかけていました。まるで祈りをあげているような相手の姿に、動揺したのです。影が静かに立ち上がりました。若い男の人でした。前髪が目にかかる程度に髪を伸ばし、やや面長で、柔らかいもの問いたげな目をしていました。洗いざらしのTシャツに、膝に穴のあいたジーンズ、擦り切れたスニーカーをはき、足元に大きなリュックを置いています。
『いたませて、いただいていました』」
私はここで吹き出した。悼むという言葉をひらがなにすると、何ともカジュアルな印象である。しかも、ダジャレになってるじゃないか。私は唐突に「自分は最後のカウボーイだ」というようなセリフを言い放った『マディソン郡の橋』のロバート・キンケイドを思い出し、『悼む人』が、重いテーマを孕みつつもロマンスの香りに満ちたエンターテインメント小説であるに違いないと確信した。
物語の終盤で、私はもう一度笑った。都合のいい展開で盛り上がるドラマチックなシーンがあったのだ。予感は的中した。
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メディアを通じて、あるいは人に教えてもらうことで知った死者を訪ね、悼む旅を続けている青年、静人(しずと)。亡くなった人について<その人はどういう人に愛され、どういう人を愛し、どんなことで人に感謝されていたか>の3点のみを周囲の人に聞き、心に刻むことを心がけている。
静人はなぜそんなことをするのか? どこに泊まり何を食べているのか? 身勝手過ぎるんじゃないか? さまざまな疑問が頭をよぎるが、この小説は、それらを解明するミステリーである。主要登場人物は、エログロな記事を得意とする週刊誌の特派記者「薪野(まきの)」、静人の母親「巡子(じゅんこ)」、そして、通りすがりのワケあり女「倖世(ゆきよ)」の3人。つまり、人間の醜さを暴くプロの視点、彼をよく知る肉親の視点、彼をまったく知らない他人の視点という3つのアングルが用意されている。悼む人という奇妙なキャラクターを解き明かすには完璧な設定といえるだろう。
登場人物の多くは、鈍感でマイペースな自分探し野郎にしか見えない静人にいらだち、不信感を抱く。だが、静人の行為に理解ある人もいないことはない、という状況が積み重ねられるうちに、最終的にこの小説はどこへ行くのか。第一章で「なぜそんなことするの。宗教活動じゃないと言ったよね。じゃあ……」と言う蒔野に「ぼくは病気なんですよ」と答える静人。このセリフに引っ張られて私は最後まで読んだが、最大のミステリーは、この小説を読んで、自分の静人への気持ちはどう変わるのかということであった。
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小説の中盤で、薪野は巡子にぶしつけに言う。
「人々が彼を見る目は、はっきり言って厳しく、非難のほうが多いんです。馬鹿にされたように思う遺族もいるようです。そうと知れば、ご家族として、彼の旅を止めないはずはないんですが」
「彼の最終的な目的は何です。なぜ、いまのような生き方を選んだんです。親ならば把握なさってるはずでしょ。それとも、べつにどうでもいいですか。関係ない、と突き放されますか」
注目すべきは、その直後の描写だ。
「蒔野の細めた目が底光りした。そのとき、相手の内面に別の生きものが息づいているような錯覚を、巡子は抱いた。脂ぎった中年男の内側に、息をひそめてこちらをうかがい、答え方次第では食ってかかろうと、憎しみの目を冷たくとがらせている子供がいる……」
この後、小説のキモともいえる巡子のセリフが続くのだが、裏世界に通じるエログロな記者の中にすら「子供」が見える。これこそが著者の人間に対する視線ではないかと思う。誰もが、傷ついた子供であるということだ。
一方、静人と倖世の関係は、まるで聖フランチェスコとキアラのようだ。静人の理論武装は、旅の途中でさまざまな人の質問に答えるうちに強固になり、倖世との対話も聖人と弟子の様相を帯びる。だが静人は、聖フランチェスコのように親子の縁を切って巡礼の旅に出ているわけではないから、家族に迷惑をかけまくる。静人の名を音読みすれば「聖人」だが、実は、俗人の極みなのである。
そう、この小説には聖人なんて一人も出てこない。今の日本には、いろんなタイプの俗人がいるだけなのだ。では、そんな俗人ばかりの世の中では何が起きているのか。俗人は何を目的に生き、何ができるのか。とことん俗人に寄り添い、ヒーローになりえない「つまらない男」を主人公にし、最後のわずかな可能性のようなものを絞り出したこの小説は、非力だが、力強い。
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死が多く、めげるキャラクターも多いので、読んでいて疲れる。露悪的な描写で試されているような嫌悪感もある。だけど最後には、ロマンス小説のようなお楽しみもあるし、いくつかのいい風景を見ることができる。静人は家族を傷つけた落とし前をどうつけるのかという謎や、不信感を抱きつつ読み続けた読者が最後にどんな気分になるのかという最大の謎が解き明かされるまで、読むのをやめるべきではないだろう。
<無差別に悼む人>という特異なキャラクターは、<無差別に殺す人>が蔓延する世の中に、ごく自然に生まれてきた存在のように思われる。悼む人も殺す人も、どちらも病的であり、人がどちらに転ぶかは紙一重なのではないだろうか。どちらのキャラからも無縁であることができれば、それがいちばんいいに決まってる。世の中が平和な死ばかりなら、皆が身近なコミュニティー内で問題を解決できるなら、このようなパブリックな癒し小説が書かれる必要はないのだ。
週刊誌の扇情的な記事などをもとに、静人が悼みをおこなっているという俗っぽい設定は冴えている。私たちは日々、そのようなニュースに触れ、何かを感じ、被害者や加害者について自分勝手に都合のいい判断を下しているからだ。そんな私たちと「悼む人」の違いは、一体何だろう?