好きな作家を探し出すというのは読書の大きな楽しみのひとつだと思う。だから小川洋子という小説家を知ることは、読み手によっては無形の財産と呼ぶべきものなのかもしれない。そこには放たれた言葉と同じくらいの沈黙があり、それらが静かに共鳴し合っていく様を、まるで小石が投げられた水面を息を潜めて眺めるような、言葉と沈黙との幸福な関係を感ぜずにはいられない。饒舌な文体や大胆なプロットでめくるめくような別世界へと引き込んでいくようなタイプとは異なる。むしろ一点の染みが少しずつ広がり、やがてひたひたと内側を満たし、深い井戸に木霊していくかのような静謐さが、心を捉えて離さない。
そんな小川作品の場合、登場する人物にしても大向こうを張るような英雄的な人物は注意深く避けられ、一見何の変哲もない、しかし内面に奇妙な位相を抱えた人物が様々に立ち現れることは、ファンであれば先刻ぎご存じのことだろう。例えば『揚羽蝶が壊れる時』(89年)での痴呆症の祖母と精神を患ってしまった母や、『シュガータイム』(91年)に登場する過食症の姉と背が伸びない弟など、健常ではないもの、歪んだものにこそ目を向け、そっと照らし出すことは、ごく初期の作品からの特徴となっていた。そうした彼女の手法は、身体や記憶を次第に失っていく人々を、(ホロコーストを想起させる)記憶狩りの秘密警察と対比させながら描いた94年の優れた『秘めやかな結晶』によって壮大な世界へと羽ばたいていったし、何といっても03年に発表された普遍的な名作『博士が愛した数式』のことを語らずにはいられない。わずか80分の記憶しか続かないという障害のある老博士が、ふと出会った平凡な家政婦と、さらに彼女の息子と心を通わせていくこの邂逅の物語は、記憶するという営為にことさら心血を注いできた彼女ならではの一里塚だった。
けっして忘れないと誓った約束もいつかは時の流れのなかで忘れ去られていく。今この瞬間に焼き付けた鮮やかな風景もやがて色褪せていく。あらゆることは通り過ぎていく。そうした虚しさや残酷さを知れば知るほど、そして大人になればなるほど、小川洋子という書き手は記憶という回路を丁寧に紐解き、手の平に乗せるように慈しんでゆく。05年に新聞小説という形で読売の土曜版に連載され、06年に単行本となったこの長編『ミーナの行進』にも、そんな彼女の思いが溢れ出ている。
時は1972年春の芦屋。その町にある伯父の家へと、主人公の朋子という12歳の女の子が引き取られてくるところから舞台は始まる。朋子のもっぱらの友達は一学年下のミーナであり、この女子二人の交遊を軸に話は進められていくが、小川がいつも考慮する人物造型に関しては、このミーナにドイツ人の血が流れているということや、彼女が重い喘息を患っている“弱き者”であること、あるいはミーナの飼っている動物が犬でも猫でもなく、カバであることなどに見て取れるだろう。
さて、そんな病気もちで内気なミーナの密かな楽しみは物語を紡ぐこと。蒐集するマッチのラベルに描かれた絵ごとにイメージを飛躍させる文章を書き、それぞれのマッチ箱に保存していくミーナだが、その壊れそうな物語を劇中劇のように読んでいく展開がまた素晴らしい。
伯父の家に暮らす人々(と動物一匹)の表情も多彩でユーモラスだ。清涼飲料水会社の三代目社長となる伯父、叔母、ローザおばあさん、家事を仕切る快活な米田さんが、あるいはポチ子という名のカバが、ときに光となりときに陰となって、朋子とミーナの視界に出入りする。その家族構成の賑わいは、まだ日本にかろうじて大家族の名残りがあった時代の活気を伝えると同時に、家を留守にしがちな伯父の事情も仄めかされ、またテレビに映し出される映像は、あの忌まわしいミュンヘン・オリンピック事件をも言い含めている。
思えば朋子とミーナが心を通わせたのは、わずか一年間のことだった。だからこの本はきっと誰もが経験し、心の奥底に眠らせている幼少期を描いた“小さな物語”のひとつに過ぎないのだろう。しかし読み終えてからの余韻はむしろ大きく広がっていく。それはこの書が、三十年後の朋子による一人称によって進められるといったこと以上に、小川が秘めた記憶への意志のようなものが読み手を揺さぶるからではないだろうか。
文中で作者は「私の記憶の支柱と呼んでもいい」「過去の時間によって守られていると、感じることがある」と朋子に回想させている。そんな意味でもこの『ミーナの行進』は、小川洋子の自伝的な要素さえ感じられるとても素直な作品だ。一人の記憶の守り手が、この爽やかな郷愁に満ちた物語をそっと引き寄せ、沈黙する水面に小石を投げたのである。