大阪に創立九十年以上の歴史を誇る総合学園・帝塚山学院がある。幼稚園から大学まで一貫した教育を行い、「力の教育」を理念に掲げている。これを作ったのが教育者・庄野貞一。帝塚山はかつて原野で、明治期に家が建ち始め、大正までは住吉村。新興の住宅地に、自由な精神を重んじる学び舎を、この庄野が作り上げ遺したのだ。
庄野が遺したものはほかにもある。次男で児童文学者の英二、三男で芥川賞作家の潤三、そして本書の著者、四男の至である。文筆家として三人の立つ位置は少しずつ違うが、そこに表れた健やかな眼差し、馥郁たるユーモア、大仰を嫌い細部を大切にする姿勢などは共通している。ひっくるめて「庄野文学」ともいうべき彼等の文業は、読む者を安心させ、寛がせ、気持を豊かにする。それは庄野貞一が創立した一学舎に匹敵する業績かと思われる。
『三角屋根の古い家』のタイトルとなった家とは、つまり兄弟が育った、帝塚山の庄野家のことである。著者は末っ子で昭和三年生まれ。上に鴎一、英二、潤三と三人の兄がいて、彼だけが名が一字で数字がつかないのは、上に早逝した四郎という兄がいたからだとこの本でわかった。「この家の最後の子ども」の意味でそう名づけられた。自然に、つねから歳上の兄たちを低い目線から観察する習慣が、この末っ子の身についたらしい。おかげで。この本が出た年に八十歳になるとは思えない、若々しい筆で庄野一家の日々を読むことができる。末っ子の効用だろう。
やや長めの表題作と、潤三が芥川賞受賞の知らせを聞いた夜をスケッチする「真夜中の祝宴」、それに創作ふうの小品四編を納める本書だが、なんといっても二つの回想が興味深い。なぜなら、私は英二と潤三のファンだから。とくに庄野潤三は、「誰か好きな作家は」と問われた時、考える前に舌がまず告げる名前だ。そんな敬愛する作家の、知られざる若き日の姿が、弟の目からどう見えたか。
二階で一つ部屋を一緒に使っていた英二と潤三。腹をすかした二人がそれぞれ台所へ下りてきて、食べ物にありつく様を「幼い僕」が観察していた。英二はいきなり台所の押し入れからお菓子や林檎をつかみ出し、林檎ならセーターで拭くとかじりつきながら二階へ駆け上がる。潤三の場合は、そのまま文章を引こう。
「ゆっくり下りてきて、台所で難しい顔をして黙って立っている。すると母がやって来て、/「潤ちゃん、何か欲しいんで?」/と徳島弁で訪ねる。でも潤三は黙っている。すると母が、/と優しく言ってくれる。すると潤三は頷く。/母が出してくれた菓子を握り、潤三は二階にあがって行った」
庄野潤三のファンなら、この場面はそのまま庄野文学のようだと思うだろう。機敏な兄とおっとりした弟は、庄野潤三一家をモデルにした一連の家族小説に登場する明夫と良二を憶い出させる。
この末っ子は食いしん坊らしく、食べ物のシーンが生き生きとしているのも本書の特徴だ。戦争が激しくなり、英二が入営し、十年間もの軍隊生活を送ることになる。その前の晩、最後の御馳走で作られるのは「母の得意のライスカレー」。「昼過ぎから大きな鍋で、ジャガ芋と人参がゴロゴロ入った黄色いカレーを三時間ほどコトコト炊くのだ。表の道までカレーの美味しそうな匂いが漂ってくる」と書かれると、どうしたって読者は、今晩はカレーとメニューを決めるはずだ。
その黄色いライスカレーが、長兄の鴎一が結婚し、新妻が作ると茶色いカレーライスに変身する。カレーの変化で、さりげなく庄野家の世代交代、時間の流れを描くのだ。その鴎一が「洋館風の小さな吉田屋パン」の食パンが好きで、これをスライスし、火鉢の炭火で焼いて、次々バターやジャムを塗って弟妹に分け与えるシーン。自分でも「こんがり焼いた食パンをパリッと、何ともいえない美味しそうな音をさせて頬張る」。ここも、なんとも巧い。金色のトーストが匂ってきそうだ。
その鴎一が、昭和二十三年冬に、あっというまに病気でこの世を去る。我々の頭の中に、弟妹に食パンを与え、自分でも「パリッといい音をさせて食べていた」至福の映像が残っているだけに、この知らせはより悲痛に響く。その数年後、父・貞一も逝く。そして「三角屋根の古い家に、父や母が元気でいて、兄や姉たちもみな揃って、大きな食卓を囲んで、賑やかに母の徳島式ライスカレーを食べていたこの家の幸せな時代は、いつの間にか終っていた」と締めくくるのだ。
慈愛をもって家族を見つめ、その印象を鮮明に描き分ける。この手法は、英二にも潤三にも共通して見られる美質だ。著者はこの両兄の作品を読んできただろうから、似ているのは当然かもしれないが、むしろ庄野家の血の中に溶け込んだ美質のようにも思える。歌舞伎の芸風が家伝のように後継されるように、家族を描く巧さは、庄野家の「お家芸」といってもいいだろう。今のところ、英二、潤三、至の息子や娘たちで、文筆を生業とする者は出ていないようだが、この「お家芸」が途切れず、継承されることを庄野家ファンとしては、ちょっと期待してしまうのである。