意外に思われるかどうか分からないが、新聞記者や雑誌記者は、記者会見で拍手をしない。例えばノーベル賞をとった偉大な科学者を迎えたとして、ひとまず「おめでとうございます」くらいは言うだろうが、さんざん質問攻めにした相手が会見を終え、頭を下げるのを見ても、大方の記者は表情を変えずに無言で席を立つ。
実際、失礼かなと思うことはある。とはいえ、そこには会見者がしゃべっているのは自分たちの後ろにいる読者に対してである、というメディア(媒介者)としての「建前」がある。会見場における記者の仕事は、ノーベル賞学者でなければ語れない話を引き出すことであって、称賛するのはあらかじめ与えられた務めではない。もう少し愛想があっても本当はいいのだろう。だが、身に染みついているやり方だから、そう簡単に変えられない(あ、外国ではどうか知りません)。
ついでに言えば、少なくとも一昔前までは、新人記者は「会見であまり根掘り葉掘り聞くな」としつけられた。ライバルである他社の前で、自分の手の内(つまり何を知っていて、何を知らないか)をさらすようなことはするな、という意味である。
とはいえ、個別取材に応じず、記者会見でしかコンタクトできない取材対象もいる。だから、会見の最中は黙っていて、会見が終わるや駆け出してすっと横に張りつき、そこで乾坤一擲の質問をぶつけろ……なんて「技」を、私も新人時代に先輩記者から伝授された。無論、うまく使いこなせたためしはない。
そんな私が言うのも気が引けるが、本当に大事な情報は「1対1」で取る。いわゆる「サシで会う」ということだ。集団取材ももちろんするが、それでネタが拾えるとは大方の記者は思っていない。だから、テレビドラマや映画で、取材対象に群がって「一言お願いします!」と絶叫する「取材記者」の姿が描かれると、見ているほうが恥ずかしい。あれが「取材」だと思ってもらっては困る。
さて、なぜこんなことを述べたかと言えば、どんな仕事にも「流儀」がある、ということを言いたかったからだ。記者の取材対象はその多くが、政治、経済、スポーツ、社会風俗……などなど、さまざまな分野のプロフェッショナルである。プロにはプロの流儀があり、それをわきまえて記事を書くか書かないかで、厚みがぐんと違ってくる。
流儀といえば堅苦しく聞こえるが、その業界に特有の「常識」と言い換えてもいい。新聞記者は大概、駆け出し時代に警察担当を命じられる。いきなり「コミ」(現場での聞き込み)とか「ヤサ割り」(関係者の自宅を割り出すこと)といった隠語、符丁のたぐいと直面させられ、最初は「刑事ドラマみたいだな」と思って気恥ずかしいけれど、じき慣れる。警察用語を知らなくても記事は書けるが、やはり知らなければ仕事はやりにくい。
プロにとってのジョーシキが読者の好奇心を刺激する大事な情報になる。そういうこまやかな描写を盛り込むことで、記事に説得力が生まれる。それが高じてというか、例えば飲み屋に行って、料理人からたまたま「包丁を何本も使い分けるので、手の決まったところにタコが三つできるんですよ。ええ、料理人仲間なら手を見ればピンときますね」なんて話を聞くのを、いい酒の肴を拾ったと思えばいいのに、大げさに「職業倫理」だと言い触らしたりする。赤面の至りである。
そんなこんなで、今回手に取ったのは約40年にわたり電車の運転手を務めてきた、いわば鉄道のプロが書いた本である。2008年5月下旬に出版され、7月時点で5刷と売れている新書だから、わざわざ紹介するまでもないかもしれない。それに、今どきは鉄道マニア、いわゆる「鉄」(あるいは鉄ちゃん)と呼ばれる方々が鉄道の魅力を存分に語る時代になったから、私ども非鉄(非・鉄道マニア)の出る幕でもないと思った。
だが、表紙をめくり、「はじめに」と記された巻頭言のしょっぱなに<私は、1958年に国鉄に入社しました>と書いてあるのを見て、いっぺんで気に入ってしまった。ここまで単刀直入な物言いは、簡単なようでなかなかできるものではない。飾り気もうるおいもない一文だが、私はそこにまさしく「プロ」の匂いをかぐ。『電車の運転』という題名にひかれてページを開いた読者に対する、何よりの「品質保証」に違いない。