海外文学の好きな人、アメリカ小説に親しんできた人でも、「えっ、聞いたことないよ」という声が多かったんじゃなかろうか。ベンジャミン・バトン。もしかしたら、古くから出ている荒地出版社の3巻本、例えば『ジャズ・エイジの物語』あたりに収録されていたかな? と思って調べても、むろんそこには載っていない。そうなのだ。一部の研究者が私的に訳したことはあるのだろうし、学会などで小部数、プリントが配られるようなことはあったとしても、公に出版されるのはこれが本邦初。しかも、ほぼ同時期(発行日わずか5日違い)に2つの訳が別の版元から出された。おまけに映画も2009年2月7日から全国で公開中である。というか、映画の公開にあわせて出版されたというべきか。へええ、あの人ってこういうの、書くんだ、と思うような、でもやっぱり、なんともフィッツジェラルドな短編である。
ごろん、と無造作に、そこに投げ出してあるような小説である。都甲幸治訳のほう、訳者あとがきで書かれているように、かつてマーク・トウェインが「人生の一番いい時は最初にやってきて、一番悪い時は最後に来るっていうのは辛いよなあ」と発言したのを受けて、「じゃあ、逆にしたらどうかと思い立った」というテキストなのだけれど、なんというか、けっこう取り付く島がない小説なのだ。我々にはどこか、小説にはあらすじ、というふうなものがあって、それが重厚長大であれ身辺雑記的であれ、とにかく書物を右から左に読んでいくための成り行きのような基本線があり、その線に対してどうやって肉付けしたり、またその肉を削ぎ落としたりするかが作家の技量、みたいな感覚がある。そして主題から外れたような場面や、あるいは物語を動かす重要なシーンであっても、テーマや意味とはまた別に、作家が用意した芳醇な書き込みを堪能して、それを細部(ディテール)がいい、などと言ったりもする。
しかしその「ディテールがいい」という、正直自分も時々言ったりするし、そこで何かを表明した気になりもする、その言い方にどことなく嘘くさい感じがしないでもなく、というのはこれは筆者の場合だけなのかもしれないけれど、なにかしらその小説をまるごと(全体、という意味じゃないです、まるごと、です。違いがわかりにくいかもしれませんが……)受け取り損ねている時の避難場所として「ディテールが……」なんてこねくり回しているのじゃないかという、そういううしろめたさが、この『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を読むことで増幅されたのである。
だからこの小説を、あえて「ディテールのない小説」と呼んでみたい。いやもちろん、細かな枝葉が無かったら小説にならず、その意味での細部が無いわけがないのだけれど、いわば主題やテーマから自立したディテールの一人歩きは、ここでは絶無に等しい。本当は「ディテールのない小説」から一歩踏み込んで、「ストーリーしかない小説」とすら呼んでみたい誘惑にも駆られる。例えて言えばそうだ、ロックならロック、今日のポピュラー・ミュージックの楽曲は、だいたい4分から5分、それ以上の長さを持つこともザラであり、音の数もアレンジも複雑である。比べて初期のビートルズの曲はほとんどが2分台、1分台の曲も少なくなく、しかも「はい、ここで終わり」という明確な輪郭を持っていた。言うならばそれは「ディテールのない曲」である。まさにあんな感じ。
だから『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』が、ブラッド・ピット主演、デヴィッド・フィンチャーの監督の下で製作され、それが167分の長さを持つ映画として公開されると聞いた時、ある程度の予想はついた。ついたがしかし、ここまでとはね。そう。これはもう、原作とまったくと言っていいほど違うストーリーなのだ。登場人物も設定も、職業だって違うし、怖ろしいことに妻の名前まで違うよ! 聡明なデヴィッド・フィンチャーは、原作に書かれていないが、書かれていてもおかしくなさそうなディテール=エピソードを、原作の延長線上に想像=捏造することを周到に回避し、そこにまったく違う人間関係や枠組みを嵌め込むことで、つまり完全にオルタナティヴなストーリーを用意することで、「ディテールのない小説」としてそこにゴロンと投げ出されてある、荒削りで甘美な、キチンとはじまりと終わりは明確に決まっている、初期のビートルズ・ナンバーのような『ベンジャミン・バトン』を、原作に忠実なフリをして台無しにするという失敗から逃れたのである。