とかく寒い季節には手足が冷え、血の巡りが悪くなって顔が上気してくる。脳に血が集まりすぎるのだろうか、簡単なことをわざと難しく考える頭でっかちの、現実感を欠いた人間になっていく気がする。
これではいけない、もっと地に足をつけて生きなければ……と思い、試しに近所を散歩してみた。手足の血行が促せるし、それにサラリーマンの日常は職場と自宅の往復なので、自分が生活している街、つまり「地元」を案外と知らない。
が、ただ歩くというのは本当につまらないことが分かった。そこで思案して、仕事帰りに少し道草をし、近所の書店をのぞくのを日課にすることにした。私は「行きつけの本屋」がないことに、以前から内心恥じるところがあった。飲み屋、散髪屋、そして本屋。この三つに行きつけを持つと、何となく生きるうえで地に足がついた感じになる。
仕事で必要な本を探すならできるだけ大きな書店が都合がよいが、何か面白い本がないものか……という時は、やや小体な店のほうがいい。主の眼鏡にかなった新書、文庫のたぐいが並べられている棚は、子どもにとっての駄菓子屋みたいなものだ。ターミナル駅に直結しているような大規模店では選ぶ対象が多すぎて、本が密かに発信する「面白いよ電波」を、私のアンテナでは拾えない。
私が乗り降りする駅の南口商店街にHという書店がある。そこで1、2冊物色して、その後、焼き鳥屋のTに入って本を肴にホッピーを飲むのはどうだろう。ああ、これだこれだ。地に足がついた生き方だ。私の好きな作家・藤沢周平の日課も、私鉄沿線の駅前商店街にある書店をのぞき、そのあと行きつけの喫茶店でコーヒーを飲むことだった。エッセイにそう書いてあった。
昔の国鉄のCMにならえば、ディスカバー近所。机の引き出しの奥に1万円札入りの茶封筒を見つけたようなオトク感を抱きつつ、H書店に入った。新書の棚に直行し……なんだかなあ。私はがっかりしてしまった。殺風景なのである。もちろん本は並んでいる。だが、どうにも手が伸びない。
この印象、何かに似ている。再開発とやらできれいなビルは建ったが、テナントで入っているのはスターバックスとファミリーマートとTSUTAYAとユニクロ。東京を縮小コピーした、何の香りもしない郊外の駅前みたいだ。つまりは売れ筋の上位からとりあえず20冊かそこらそろえてみました、といった様子で、主の「眼鏡」が働いたように見えない。
これではいけない。実は今、南口商店街も再開発問題で揺れているのだ。店主の多くが反対し、のっぺらぼうの街が現れるのを恐れる私も反対運動を応援する気持ちがあるが、商店街自体がオンリーワンの魅力を醸し出す努力をしないといけない。さもないと仮に再開発は止められても、いずれチェーン系に呑み込まれるか、シャッター通りになるかだろう。
その点、都心のオフィス街で繁盛している書店は、小規模なところでも(逆にそれゆえ)本の売り方にはやはり一日の長がある。主や店員の神経が行き届いている書店は、冷やかしの客を容易に離さない。新書の棚を眺めているだけで、それなりに時代のベクトル(方向性とボリューム)が見えてくる。最先端から半歩下がって時代をトレースする仕事の週刊誌記者にとって、書店は大事な「取材源」になりうる。
さて、今回紹介するのは、勤め先の新聞社が入るビルの中にあるR書房で手に入れた、その名も『取材学』。1975年に初版が出版され、32版(2004年7月)を数える。昨日出た本と一緒に、30年以上売れ続けている本が棚に並ぶ。これが書店の力だ。すべてをひっくるめて「今」なのだ。今とは一瞬に過ぎるものではなく、時間のふるいにかけられて生き残ったものの積み重ね、つまり目に見える実体である。