ときおり、とんでもない思い込みをしてしまう。
たとえば、韓国の時代劇「チャングム」。朝鮮の李朝では、女性が宮中に出仕すると、王様と擬似婚姻の関係となるので、生涯、外の世間には出られない。ドラマのチャングム女史のように、出たり入ったりはできない。これが真の姿だと、古田博司・筑波大学大学院教授。
このドラマでは、庶民の衣服は色鮮やかだ。しかし、当時は染料がないので、特権階級をのぞいて、生成りの白い服しか着ることはできなかった。「朝鮮の白は悲哀の色」という通説も、ウソだと古田氏は指摘する。上流社会の人びとだけが、中国と交易する御用商人から、色のついた布を買うことができた。朝鮮の磁器に白磁しかないのも、顔料がなかったかららしい。ちなみに日本は、江戸初期に酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功している。
衣服といえば、明治維新まで、日本は朝鮮、中国と同じく、喪服は白が決まりだった。西欧列強に万事、追いつけの時代に、明治新政府が喪服も西洋の黒に倣え(ならえ)とやったから、ややこしい。
考えてみれば、「日本史」という言葉も、怪しいものだ。周縁地域とのかかわり抜きに、日本一国で歴史が成り立つはずはない。わが国を「日本」と呼び出したのは、奈良時代以降。そのころ、北海道、東北、琉球諸島が「日本国」に統合される古代のことまで、なぜ「日本史」として語られるのか。そのわけを教科書はきちんと説明していない。「『日本史』では、数千年前の縄文時代から、日本はいまの日本と同じ範囲だったという前提で話が始まります」と著者の小島毅(つよし)さん(東大准教授)。
本書は、中学三年生の息子に、親である小島さんが、なるべく平易な言葉で語りかけるかたちで進む。
わが子が志学(15歳)に達したのを機に、著者はなぜ、歴史を学ぶことが必要なのか、なんの役に立つのか、ひとつの解を提示しようとする。将来、どんな専門課程に進み、いかなる仕事につくにせよ、歴史という学問を嫌いにならないでほしい。
以前、倫理の教科書づくりに参加した著者には、各種の制約を受け、書きたいことの半分も盛り込めなかった苦い経験があった。
いわば、文化学院の書籍版ではないか。大正期、自分の娘、息子が学ぶに値する学校がないことを嘆いて、熊野・新宮の大山林地主・西村伊作は東京・駿河台に文化学院を、私財を投じて創設。戦前は軍国主義教育にはげしく抗して、男女共学(当時、中等教育以上では東京音楽学校を除いて男女別学が大原則だった。なぜ上野の音楽学校だけが例外か。混声合唱ができないから)・英仏語重視、制服なしの自由教育を実践した。
著者の念頭には、インド独立の指導者・ネルーの『父が子に語る世界歴史』があった。ネルーの本は、世界中の人びとに読まれ、著者も息子と同じ年代に手にとり感激した。自分が暮す日本の歴史にかぎっては、やれないことはないだろう。よし、やってやろう。
文学の名作の多くが、書き手自らの魂の「救済」「治療」「慰撫」のために書かれてきた。これを書かないと自分自身が、前に進めない。わが息子に歴史の面白さを感じさせられないで、どうして人様の子どもを折伏できるのだ。本書は本人に向けて書かれた趣がある。
深遠なことをやさしく、面白く、分かりやすく述べられているので、ありがたい。ここで重要視されるのは、知識ではなく、歴史をどう捉えるかという視点の問題だ。
たとえば、一国史観。明治新政府は新しい国づくりのために、前面に日本中心の一国史観を打ち出した。国民国家の形成のために、必要なことだった。そうして、我われは知らずのうちに、この単純な歴史観の住人になっていく。
小島さんの専攻は、中国思想史。朱子学や陽明学の専門家が日本史に踏み込み、近年とみに『義経の東アジア』(勉誠出版)、『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)など、刺激的な著作を発表し、斯界に新鮮な風を吹き込んできた。
歴史学界というのは、縦割り社会の縮図のようなところがある。たとえば、近世漁業史の若手研究者(非常勤講師クラス)が、畑違いの中世農業史について発言するには、勇気がいる。まずおおかた、師匠筋の指導教授が不機嫌になる。研究仲間も、かれは変節したのかと疑いの目でみる。下手をすると破門扱いされ、常勤講師以上の職に就けない可能性も生じる。蛸壺から這い出すな。大魚に食われるぞ。そう自戒し、牽制し合っている研究者も、また多い。