新しい翻訳が出ると、読み返すきっかけができるのでうれしいのだが、一方で、もしその小説や詩が自分のお気に入りのものであれば、訳者のちがいによってその作品の世界が壊されるのではないか、といった不安も当然でてくる。私にとってヘミングウェイの『移動祝祭日』はまさしくそのような作品なのだ。だから高見浩訳の新潮文庫が出ると知ったときも、複雑な気持ちだった。私は、同時代ライブラリー(岩波書店)の福田陸太郎訳を長らく愛読していたので、新訳が出てもすぐに飛びつくわけにはいかなかった。(同時代ライブラリーには、海野弘の魅力的な一文「二〇年代フリークにとってはこたえられない『移動祝祭日』」も入っている)
でもしかし、新潮文庫を手に取り注を読めば、最新の研究によってわかったことも詳しく説明してあるし、本文を少し読むと、若々しいヘミングウェイがあのパリの街を考えごとをしながら歩いているではないか。読み返すときがきたのだと思い、迷わず購入した。
この『移動祝祭日』の舞台は1920年代のパリだ。新しい芸術が生まれようとしているエネルギーに満ちた都市に、まるで何かに吸い寄せられるようにして才能ある芸術家が集まってくる。ジェイムズ・ジョイス、ガートルード・スタイン、コクトー、エズラ・パウンド、ストラヴィンスキーといった人たちが、ある時代を創造していたのだ。そのようなパリに現れたのが、二十ニ歳のヘミングウェイだった。
彼は、1921年12月、妻のハドリーと共にパリにやってきた。
『移動祝祭日』は、ヘミングウェイ最晩年の作品なのだけれど、ワインが何十年もかけて樽のなかで熟成するように、パリでの生活はずっと彼の胸中で暖められていたにちがいない。「何を見ても何かを思い出す」というヘミングウェイの短編小説があるが、彼の残したすべての小説の総題としても相応しいのではないか。このタイトルは彼の文学の特徴をよく表していて、『移動祝祭日』も、「何を見てもパリを思い出す」といった気分のなかで書かれたにちがいない。
まだ無名の年若いヘミングウェイがパリの街を歩き、人に出会い、馴染みのカフェに入り、通信社に記事を送る。読みすすむ我々もまた、ヘミングウェイの目になって、パリの街のあちこちで立ち止まり、驚き、心を動かされる。パリには単純なものは何一つなかった、と書いたヘミングウェイ。彼の目を通して見る巴里の姿は、まるで生き物のように感じられる。その呼吸も聞こえてきそうだ。
ヘミングウェイは歩きながら、書く糸口を探して、「自分のまだ書いてないもの、失っていないもので、いちばんよく知っているものは何だろう?」と自分に問いかけている。また、空腹のときの研ぎすまされた感覚のなかで、セザンヌの美を発見する。空腹のきわみのとき、どの絵もシャープに美しく見えたという。
オデオン通りにあったシェイクスピア書店は、有名な書店兼図書室で、店主のシルヴィア・ビーチの魅力も手伝って、パリの英米人にとって、オアシスのような場所になっていたという。ヘミングウェイも、せっせと通い、ツルゲーネフやゴーゴリやドストエフスキーを借りて読んでる。このシェイクスピア書店がジョイスの『ユリシーズ』の版元だというのは、何度聞いても驚嘆に値する。
「壁に掛けられないものを書いてはいけない」とアドバイスする、ガートルード・スタインの客間の壁には、彼女がいち早く才能を認めたピカソ、マチス、ブラックといった画家たちの絵が掛けられていたのだから、ヘミングウェイにかかったと思われる、その言葉の重みも想像できるではないか。そのほか、ライバルと言っていい、フィッツジェラルドとの交遊も、興味深く記されていた。