「土と炎の詩人」「形の河井」「釉薬の魔術師」と言われた陶芸家、河井寛次郎。
形容された言葉をみても、なし遂げた業績が想像できようというもの。しかし、本人は生前、陶芸家とさえ言われるのを嫌って、人間国宝への推挙を拒否した気骨の人物である。一陶工としての矜恃を持ち続けた作品は見る人の深部にとどく。京都国立近代美術館には川勝コレクションとして400点以上収蔵されているし、大原美術館でも直接見ることができる。また、京都東山・五条坂にあった仕事場兼自宅が現在、河井寛次郎記念館になっている。
陶芸は土をこね、土と遊ぶ最もプリミティブな人類の創造活動である。言ってしまえば、どろんこ遊びに近い。童心にもどれる。もともと邪気のない暮らしのなかで生まれたものである。
僕は新聞広告や雑誌広告など二次元の広告世界に長く棲んでいて、三次元の立体造形である陶芸に出会って、たちまちその魅力に惹かれた。かれこれ4年前からロクロを習いはじめたが、いままで河井寛次郎の著述にふれたことはなかった。今年、知人のイベント・プロデューサーからもらった年賀状に、「手考足思」という河井寛次郎の言葉を座右の銘にしていると書かれていた。手で考え、足で思う。広告の発想法のようではないか。それで矢も楯もたまらず本書を入手した。
「蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ」というタイトルは陶芸家の本らしくない。そこに興味が俄然湧いた。河井は、葉っぱが残らず虫に喰われて丸坊主になっている山桐の大木を見て、「いたましい気持ち」になったそうだ。ところが、ふと葉っぱが虫に喰われているにもかかわらず、「虫は葉っぱに養われ、葉っぱは虫を養っている」と悟る。喰う、喰われるといういたましい現実ではなく、これこそが調和だと知った河井は、情趣あふれるエッセイを書き記した。なるほど彼は詩人でもあった。「手考足思」は詩のタイトルだったのだ。
「わたしは木のなかにいる 石のなかにいる」
この書き出しではじまる自己探索の姿勢を追究した詩である。
用の美を提唱し、無名職人たちがつくった民衆的工芸品を発掘した「民芸運動」は、1925年、美術評論家の柳宗悦をはじめ、河井寛次郎、のちに人間国宝となる陶芸家、濱田庄司らによってはじめられた。当時、河井は中国や朝鮮の古陶磁を華やかに再現し、新人にして名人といわれたほどの陶芸家だったが、「技巧と美は違う」という柳宗悦の痛烈な批評を受ける。一時的に河井は柳宗悦を避ける。しかし、柳宗悦の蒐集した工芸品の展覧会を見て衝撃を受けたのだ。以来、清貧な作風へと一変する。これから柳宗悦とは生涯を通じて親交を結ぶ。芸術の縁とは美への同調性である。河井は静かで控えめな日常雑器の世界に満々と湛える美を発見していく自由奔放な陶工として再出発する。
息子で陶芸家の河井博次との対談も収録されていて、無名性こそ美に殉ずることできると語っている。河井は柳宗悦と知り合ってから、自分の銘を器に入れていない。「人に知られることはおもしろいことに違いないが、知られないことはもっとおもしろい」と言う。そこにひそむ作者の孤独についても、「孤独というのは、人間のみに恵まれた詩境なのだ」と揺るがざる信念を息子に伝えている。
「手考足思」の詩は「過去が咲いている今、未来の蕾で一杯な今」で締めている。「美の信奉者」として最後まで手仕事の美を追究し続けた河井寛次郎は、連綿と続いていく未来を見つめていたのだ。モノづくりにいそしむすべての人たちに、そして僕のような駆け出しの陶芸好きにも、刺激的な魂の声が聞こえる本なのである。
「いつも手は心より勇敢なのだ」と。