本当のことを言おうか。何でも読んでいるふりをしているが、私はけっこう読んでない。
ちょっと谷川俊太郎をパクってみた。でもそうなのだ。五十歳を超えて、けっこう長い読書人生を経てきたが、いやいや、けっこう穴があちこちに空いている。久生十蘭はどういうわけか食わず嫌いで、教養文庫の五巻本の選集は所持しながら手を出さないでいた。
それで今回、岩波文庫から出た『久生十蘭短篇選』が、初の十蘭体験となった。従来からのファンなら、ええっ!と驚かれることだろう。読む前なら、驚かれても屁でもない。居直ってしまうところだが、読んでしまったあとは、ただ不明を詫びるしかない。すごい。久生十蘭。
岩波文庫版が出るまでにも、ちくま文庫、創元推理文庫、講談社文芸文庫などが、文庫でちゃんと久生十蘭をフォローしている。しかし、それは視野に入ってこなかった。岩波文庫に入って、初めてひょっとしたらと思ったわけである。これは何も、前出の各文庫を軽んじているわけではない。直球勝負の岩波文庫に、ちょっと変化級が混ざると、目がそこへ吸い寄せられていくということだ。
初体験者の私としては、お手並み拝見と、多少意地悪く読み始めた巻頭の一編「黄泉から」にまず驚いた。予想をはるかに上回る出来で、「ええ、こんなにいいの。十蘭」とギアがローからセカンドに上がった(オートマチック車しか知らない人は許してね)。「黄泉から」の要約は難しいが、渡仏経験を持つ青年が、戦後の日本で画商を営みながら虚無的に生きている。たった一人の肉親(腹違いの妹?)の消息を伝えに来た若い女性がいて、その清冽な最期を知らされる。最後の鉈でぶった切ったような終り方を含めて、ちょっと他では読んだことのない世界で、本当にこんなレベルの短篇がこの後も続くのか、と疑ってしまった。
しかし、続く「予言」「鶴鍋」「無月物語」と、レベルが衰えるどころか、あの手この手で、緊密な構成と、手のかかった文章の舞踏で、ぐいぐいと十蘭の世界へ読者を引きずり込んでいく。まったくあきれるようなテクニシャンだった。
二人の俳友が、鶴を鍋にして食おうと、通人の豪邸の庭に忍び込むという、落語のような筋立ての「鶴鍋」も、ホラ話に幻想を織り交ぜ、洋行経験を持つ通人を登場させることで、ちょっとした人情話ふうに物語を収斂させていく。先がまったく予想がつかないという点で、ミステリの手法を使いながら、文章はあくまで格調高く、柔軟な芥川龍之介を読んでいるような気にさせる。
しかし、集中の一篇を挙げよと言われたら、これはもう「無月物語」だろう。妻子を顧みず、悪行を繰り返す王朝の怪物・泰文という男を描いて、凄みのある傑作である。なにしろこの男、へ理屈をつけて、我が娘を犯してしまう。
「泰文はでたらめな箴言に勿体をつけるつもりか、拍手をうって拝んだり、御幣で娘の腹を撫でたり、たわけのかぎりをつくしていたが、おいおい夏がかってくると、素ッ裸で邸じゅうを横行し、泉水で水を浴びてはすぐ二階へ上って行ったりした。泰文はよほどの善根をほどこしている気でもいるらしく、いつもニコニコと上機嫌だったが、だんだん図に乗って、たぶん邪悪な興味から、裸の花世を葵ノ壺へ連れて行き、菊燈台の灯をかきたてて自分と娘のすることを現在の継母にちくいち見物させるようなことまでした」
ここには低位な文学が陥りがちな、教訓や浅い感動はみじんもない。あるのは、緊張感のある文章で繰り広げられる、凄まじい人間の生の描写である。悪意の前に、善意はほとんど効力を持たないことを「無月物語」は、明確に示す。文章を言語の運動と考えるなら、ここには抜き差しならない、高度な言語の運動がある。
久生十蘭を幻想文学だの、異端文学だのと、座りのいいポジションに位置づけてもしかたがない。編者の川崎賢子の異例に長い解説を熟読し、ようやく久生十蘭が、私の胸に降りてきた。