薬物を使って幻想の旅に出る男が、ある日「現実の町ではなくって、幻燈の幕に映った、影絵の町」にさまよい込む。そこは猫だけが住む不思議な町で……というのが、萩原朔太郎の散文詩的作品『猫町』だった。帯に「奇天烈な恋愛小説」と銘打たれた平田俊子の新作を読むと、あの猫だらけの町に迷い込む男の話を思い出したのである。
ただし本作の主人公は三十過ぎの女性で、たどり着く町も東京から一時間ほど離れた地方の駅前周辺、というひどく現実的な場所だ。ひと気のない寂れたホテルで、彼女「まなみ」は用もなく十日以上も延々泊まり込む。なぜ、そんなことになったのか。
物語は東京・青山での「影山さんのお別れ会」から始まる。影山は、まなみが二カ月前まで勤めていた映画配給会社の上司だった。まなみが心を寄せていた影山は、肝硬変で死去する。享年五十六。二年もつきあっていた恋人・誘児も去って、そのことをいつまでも引きずっている。
二つの大きな喪失で、自分の身の置き所のないまなみは、「お別れ会」を途中で抜け出して乗った電車を、乗換駅で降りずに上野へ出てしまう。そこから「適当な電車に乗り、適当なところで引き返そう」と飛び乗った電車は、終着駅まで彼女を運び、映画ならここで初めてタイトルとスタッフロールが流れ、テーマ音楽が鳴り始めるところだ。
この「猫町」に住んでいるのは、もちろん人間だが、どこか実体のない陽炎のようにも見えるのだ。駅から十五分も離れたステーションホテルの従業員は八十八(ヤドヤ)と照穂(テルホ)、お子様ランチしかメニューのない上田屋の女主人・上田宇枝(ウエダウエ)は、上田鏡子という偽名で試写会の応募ハガキを出す。まなみ自身も偽名を使ってホテルに宿泊しているし、上田屋の常連で、宇枝の恩師だった老人はなぜか学生服を着ている。この町では、みんなどこかしら「虚」の衣をまとっているようだ。
そんな中で、まなみにとって切実な実感を伴うのが、ホテルで話しかけてくる影山の亡霊であり、誘児と過ごした日々の追憶である。この現実と幻想の主客逆転したような構造も『猫町』に似ている。つまり平田俊子が書いたのは「人町」ということになる。
『ラッキョウの恩返し』という優れた詩集で鮮烈にデビューした平田が、詩を書きつつ、戯曲や小説の分野で各賞を受賞するなど活躍しているのは知っていた。『私の赤くて柔らかな部分』を読むと、他ジャンルである詩や戯曲との格闘による成果が、うまく小説に流れ込んでいるのを感じる。
「歩くこと。立ちどまること。風に吹かれること。この町でわたしにできるのはそれぐらいだ。上田屋を出たあとあてもなく歩くうちに、公園に出た。生き物のように風がぴゅうと吹いた。空には丸い月が忘れ物のように浮かんでいる」といった詩的文体による印象的な描写。
かつての同僚・沼子との会話。
「やめてください、変なこというのは。わたし金魚大嫌いなんですから」
「へえ。嫌いなんだ」
「嫌いというか、苦い思い出があって」
「わかった。その先はいわなくていいから」
軽快なユーモアを含ませながら、二人の関係性やキャラクターが会話によく出ている。
そして一番大事なことは、生き方が無器用な三十代の女性が、新しい環境でいっぷう変わった人たちに囲まれて……という、いまやルーティンになった女性映画、女性小説の弊を巧みに逃れていることだ。つまり、いま流行りの常套パターンだと、まなみは上田屋で働き始めることになるはずだ。ところが、平田はあっさり、登場人物の口からそれを否定してみせる。八回目にまなみが上田屋へ行ったとき、女主人がきっぱり言う。
「うち、『かもめ食堂』じゃないから」
『かもめ食堂』(群ようこ原作)は、二〇〇六年に公開され大ヒットした映画で、ヘルシンキで始めた小さな食堂に、奇妙な巡り合わせで日本人女性が集い、一緒に働くという内容だ。悪い映画ではないが、退廃を糖衣でくるんで、あらかじめ「癒し」効果を狙ったような手つきが見える。
平田は「『かもめ食堂』にだけはしたくない」と思ってこの小説を書いたのではないか。
また寂れた駅、寂れたホテル、寂れた食堂、寂れた人々の風景のなかに、著者は巧みにタイトルにある「赤」を配置する。この赤は恋人が乗っていた車の色で、不可避的に恋人の思い出に直結する。だから、よく似た赤い車、金魚、アパートの色、照穂のソックス、東京タワーと、「赤」が明滅しながら物語が運ばれている。「人が時空と因果の外に飛翔し得る唯一の瞬間、即ちあの夢と現実との境界線」(『猫町』)を、この「赤」がつなぐ。
その「赤」で、小口と天地、スピン、本体表紙を染め上げた鈴木久美の装幀もみごとだ。