近年の『別冊太陽』の日本美術関連書目の充実ぶりは壮観ですが、『春画』『続 春画』に続く第三弾は、木版画とは異なる一点ものの肉筆画特集です。類書としては小林忠・白倉敬彦編『春画と肉筆浮世絵』(洋泉社)なども刊行されていて、やはり素晴らしい内容ですが、なにしろ12,600円と高額なので、こちらの『別冊太陽』の方の価格2,730円はありがたい。
「世界初の肉筆春画通覧」の試みということで、メインの浮世絵春画以外にも、浮世絵以前のいわゆる「古春画」の代表作がまとめて見られるのが、まず大変嬉しいです。
『小柴垣草紙』(平安末期/江戸中期模写)、『稚児之草紙』(鎌倉期/江戸初期模写)、『袋法師絵詞』(鎌倉末期/江戸初期模写)の、いわゆる「三大古春画絵巻」が、もちろん無修正のオールカラー図版でどーんと収録されているという気前よさ。それぞれ大型図版は抜粋ながらも、ページ下に全編の図版が細長い帯として収録されており、詞書(ことばがき)まで読み取るのは難しいものの、絵巻全体の構成はだいたい把握できるという親切設計です。
春画といえば「近代以前の日本人の明るくおおらかな性意識」を愛でるものということになっているようですが、「エロ/HENTAI」サブカルチャー全盛時代を生きてきた身としては、個人的にはむしろ古春画の「現代性」のほうに強い印象を受けます。
伊勢斎宮として神に仕える皇女が、色男の武士を見初めて装束の前をはだけて誘惑し、全裸でくんずほぐれつをくり広げる平安時代末期の『小柴垣草紙』。寺院に仕える稚児たちが、僧たちの性欲に対して健気に奉仕する5つのエピソードを綴る鎌倉時代末期の『稚児之草紙』。好色な法師が旅の女房たちを犯し、ついでにその邸に上がりこんだところ、袋に詰められて女たちの間をたらい回しにされ、ひたすら性の奉仕をさせられて消耗しはてる鎌倉時代末期の『袋法師絵詞』。
これらを「やんごとなき処女~性に開眼~淫乱」「ご主人様にご奉仕」「無理無体」と要約してみると、そのまま現代のポルノにもよくありそうなパターンに思えてきます。「レイプ → 尼さん → 淫乱 → ご奉仕」と展開する『袋法師絵詞』などは、あまりにも「ポルノ」らしい「ポルノ」に見え、その「らしさ」にかえって驚きを覚えるくらいです。
さらにこれらの古春画に向き合うことで改めて思い当たるのは、結局「ポルノ」の根幹にある感覚とは、「他人の身体ってふしぎ! どんなしくみになっているのか知りたい!」という「センス・オブ・ワンダー」なのではないか、ということです。
『小柴垣草紙』の皇女のはだけた装束からは、古拙な筆致で描かれた顔とはうって変わって解剖学的リアリズムな性器が、1本1本丁寧に描かれたフサフサした陰毛に縁どられて露出し、それを皇女の足元に腹ばいになった武士がまざまざと注視しています。まさに「ソコって一体どうなってるの?」の「センス・オブ・ワンダー」が、ダイレクトに満たされる図といえましょう。ましてや現実には顔を直接見ることすらかなわない高貴な女人のソコとくれば、「センス・オブ・ワンダー」の念もさらに高揚するというもので。
しかも、身分も立場も忘れて、一目ぼれした下郎を誘惑し、ありとあらゆる体位でのセックスに奮闘してしまうこの皇女は、理性や意志のコントロールを受けつけずに暴走する性的欲望にとらわれた身体の持ち主であり、つまりは「淫乱」な女人として描写されています。ポルノが「淫乱」と「強姦」というシチュエーションを好むのは、「他人の性的な身体の、理性や意志によって取り繕われていない真実のメカニズムを知りたい!」という科学的探究心を満たしてくれるからなのかもしれず、だとすれば、やんごとなき聖職の女人たちのわれを忘れた淫乱ぶりを描く『小柴垣草紙』にしても『袋法師絵詞』にしても、そこに広がっているのは案外見慣れた光景のようにも思われます。
そして、他人の身体を、当人の意志によるコントロールを外したうえで、自己の「センス・オブ・ワンダー」を満たすための「実験」の用に勝手に供するというのは、やはり「差別的である」ということにもなるでしょう。これらの古春画絵巻に共通する、やんごとなき貴人たちが、卑しい身分の男たちの身体を、自らの性的欲求を満たすために用立てるという筋書きもまた、逆ベクトルで「差別的である」といえるでしょう。
ことに『袋法師絵詞』の、法師を詰め込んだ袋の上に尼僧がまたがり、袋の開口部から突き出ている男性器を嬉々として挿入している図などは、近代以前の作品にそれを言っても仕方がないといえばないのですが、人格無視・尊厳無視のきわめつけといったところ。自己の性的欲求と「センス・オブ・ワンダー」を一方的に満たすための、性と権力の格差をバックにした人体実験という図式は、古今東西、処変われど品変わらず、という感もあります。
春画といえば「おおらかな無垢さ」ばかりがことさらに強調される現代の鑑賞作法は、そこに描かれている人たちが大昔の故人だけに、「差別性」の問題を見ずにすませることがより容易であるゆえか、などと邪推したくもなりますが、とはいえ、これらの古春画の幼稚ゆえにひたむきな科学的探究心の発露と、まさに体を張って知られざる人体の秘密を見るものに開示してくれる女たち、稚児たちの果敢な姿には、時代を超えて見る者に迫りくるポルノの不滅のパワーが横溢していることも確かです。
これが江戸期の浮世絵春画になってくると、「美しさ」という「センス・オブ・ワンダー」とはまた異なる価値が浮上してきます。豪奢な金地に四季折々の衣装をまとった男女が絡みあう月岡雪鼎の『四季画巻』といい、瀟洒にして繊細優美な勝川春章の『春宮秘儀図鑑』といい、いずれも肉筆画ならではの華麗な色彩に彩られた衣装の布や紐がしなやかに波うち、流れ、渦巻く中から、白い柔肌が見え隠れするさまは、うっとりするほど美しいのですが、その「美しさ」の中心には、常に「センス・オブ・ワンダー」でリアリズムな性器の結合が堂々と存在していて、この「センス・オブ・ビューティー」と「センス・オブ・ワンダー」のせめぎあいこそが、もしかしたら浮世絵肉筆春画のエッセンス、なのかもしれません。