本を読むことや、音楽を聴くことや、絵をみることが、今や私の生活の大部分を占めています。それぞれちがった愉しみであって、知らず知らずのうちに私の生活を支えてくれているのだと思っています。しかしどうでしょう、絵画だけが、絵画を見る愉しみだけが少し他とちがうように思うのです。絵画の場合、その愉しみの中に何かもの足らない感情が残るのではないでしょうか。
例えば、私は、何かのきっかけで、無性に関根正二や村山槐多の絵が見たくなるときがあります。そういうときに近くの美術館で回顧展か何かが開催されていることはまず考えられないので、私は仕方なく、画集や図録を開くことで我慢してきました。本物の絵と印刷の絵とのちがいは、生演奏とCDとのちがいより、ずっと大きいので、満足の度合いもまたちがってくるのです。ある画家が気に入ると、やはり美術館で額に収まったオリジナルを見たい、と切実に思うのは自然なことでしょう。
本書『あの画家に会いたい 個人美術館』を読んで、そうか、展覧会を待つのではなく、こちらから見に行けばいいのだ、と教えられました。そんなことは当たり前だと笑われそうですが、私にすれば目から鱗が落ちたみたいで、愉しみがひとつ増えたようで、うれしいのです。私は日本の画家が好きなので、本書を読んで、日本に生まれてよかった、日本人でよかったな、とも思いました。
本書で、大竹昭子さんは、好きな画家の作品が常設されている、個人美術館を訪ねて紹介しています。十七の個人美術館が選ばれていますが、こういう場合、本を購入するかどうかは、その選ばれた画家によるのではないでしょうか。そういう意味では私は迷わなかった。三岸好太郎、松本竣介、小杉放菴、秋野不矩、三岸節子、熊谷守一、香月泰男、青木繁、など興味ある名前がずらりと並んでいたからです。
私は興味ある画家の章から読んでいきましたが、最初から順番に読んだ方がよかったかも知れません。というのは、こんな文章に出会ったからです。それは東山魁夷の章でした。
【だが、その有名さが邪魔になってこれまで東山魁夷の作品にきちんと対したことがなかった。ファンにお任せすればいいという気持ちがあったし、様式が勝ちすぎて中に入っていけないもどかしさも感じていた。】
このあと、今回の旅でその印象が大きく変わったと続くのですが、有名さが邪魔になるというのはよくわかる言葉で、私の場合も棟方志功の作品などはそのように見ていました。その画家に勝手にイメージをくっつけて、安心していたのかも知れません。そういう好き嫌いをも捨てて、順番に大竹さんの声を聞くのがいいように思いました。大竹さんはまたこのようにも述べています。
【ファンの後を追うのでなく、自分なりのルートが見つかれば、外聞に惑わされずに一歩ずつ登っていける。肝心なのはその入り口をどう見つけるかだろう。】
まさに大竹昭子さんは、そのようにして自分なりのルートを見つける旅をしています。大竹さんは美術館だけでなく、その画家が絵を描くために通った場所にまで立ち寄っているのですが、そこでの描写は、その画家の絵のなかに入り込み、辺りを歩いているような感じで、そのこともまた自分なりのルート探しなのかも知れません。
写真や図版の多いのは「とんぼの本」シリーズのよい所で、ページをめくるのも楽しくなります。代表作だけでなく、スケッチや習作などもあり、その画家のまたちがった面も感じ取れるように工夫されています。例えば棟方志功の「貴女行路」は、川上澄生の影響がはっきりと見られるのですが、それでもかすかに棟方の個性もあって、まことに興味深いです。
人を旅へと誘うのも本書の特徴です。私がまず行きたいと思ったのは、北海道立三岸好太郎美術館です。この若くして亡くなった画家が元々好きだというのもあるのですが、本書にある「飛ぶ蝶」という絵を見て、三岸好太郎の貝や蝶のすばらしい絵を思い出したのです。北海道の三岸好太郎美術館に行き、思う存分、味わいたいものです。ちなみに、三岸好太郎の挿絵が使われている貴重な小説があります。本田一郎の『仕立屋銀次』。内容も面白いので探して読んでみてください。
秋野不矩さんの50歳を過ぎてからのインド体験も素晴らしいです。
「ただ描いているだけ」と言った、秋野不矩さんの絵を見ていると、その自由な気持ちが伝わってきます。大竹さんは秋野さんの著書『バウルの歌』を紹介することを忘れたりしません。インド体験を語った素晴らしい本なので、この本もまた探してほしい本です。残念ながら品切れ中ですが、増刷するか復刊するかしてほしい本です。
このように、『あの画家に会いたい 個人美術館』は、至れり尽くせりの名著で、巻末には「ほかにもある各地の個人美術館」のリストもついて便利です。この本を持って旅に出たいなあ、というのが読了後の第一声、正直な感想でした。