ビデオやDVDでもくり返し観て、それでもテレビで放送されるとついつい観てしまう映画ってありますね。私にとって、ヒッチコックなどその最たるものだ。ストーリーもトリックも、細部もわかっていて、それでも面白いのだから大したものだ。
そのヒッチコックの全作品を、映画の生き字引みたいな二人が徹底して語り合う。これは楽しくならないはずがない。ヒッチコック研究には、トリュフォーが聞き役になった『ヒッチコック 映画術』(晶文社)という大部な名著があって、もう何をしてもこの本は超えられないと思えたが、『ヒッチコックに進路を取れ』はその域に迫っている。
二人にはすでに一九七八年に出た『たかが映画じゃないか』(文藝春秋)という、新旧の映画を尽きせぬ愛情で語りつくした対談集がある。その「あとがき」で、まだ語り尽くせぬらしく「Y ヒッチコックなんか、来てないやつも全部いいっていう感じでしょう。/W そうそう。みんな好き」なんて言ってる。
それから三十年が過ぎて、とうとう念願の「ヒッチコック」語り尽くし本がこうして生まれた。タイトルはもちろんヒッチコックの代表作「北北西に進路を取れ」のもじりで、イラストはこれまたもちろん和田誠。
ヒッチコックがどういう映画作家だったかは、山田宏一がうまくその特質を要約している。
「スリラーの神様、サスペンスの巨匠と呼ばれるヒッチコックだけど、たしかに、そのジャンルをきわめた、さらには、もし映画道というものがあるとすればまさにその道をきわめた達人であることは間違いない。映画の醍醐味があるので誰が見ても面白いし、和田さんのように映画監督でもあるプロの立場から見ても面白く、お手本になる最高の監督の一人ではないかと思うんだけど」
そう言えば、前著『たかが映画じゃないか』から、本書までのあいだに、和田誠は映画監督になっていた(一九八四『麻雀放浪記』で監督デビュー)。前回より、演出についての言及が増えているのは、そのためだろう。「今だとCGがあるから、金と時間さえかければたいていのことはできる。だから技術を見せるためだけにある映画もたくさん作られるけど、あの時代はやりたいイメージがまずあって、それに向ってテクニックを考えてた」なんて発言にも、監督業を経た経験の一端が見える。
しかし、当然のことながら二人の映画に関する知識はすごい。映画史から女優の裏話まで、ポケットが無数にあるように、次々と初耳の話が飛び出してくる。
たとえば、モーリン・オハラがジョン・フォード作品に出演するのは『わが谷は緑なりき』から。これは「ヒッチコックの映画のヒロインだったモーリン・オハラをジョン・フォードが奪い去って行ったので、こんどはヒッチコックがジョン・フォードの『モガンボ』のヒロイン、グレース・ケリーを奪い返したというのね(笑)」と山田。
ヒッチコックのブロンド好きは有名だが、ジョーン・フォンテーン主演の『レベッカ』も、山田によれば、じつはこの役、当時ローレンス・オリヴィエの妻だったヴィヴィアン・リーがやる予定だった。彼女は『風と共に去りぬ』に出演中。そこで、無名のかけ出し女優だったジョーン・フォンテーンが抜擢された。オリビィエはあからさまにいやな顔を、この新人女優にして見せた。ヒッチコックもまた彼女を脅かした。ジョーン・フォンテーンは怖くて怖くて仕方なかったという。それが亡霊に脅える演技に表れた。そんな楽しい裏話が満載で、思わず『レベッカ』をもう一度観てしまう。観ずにおれなくなるのだ、この本を読めば。
『裏窓』で足を折ったジェームス・スチュアートを看護する老女、セルマ・リッターは、「昔からお婆さんという感じで」と山田が言えば、すかさず和田が「北林谷栄みたいな人だね」と返す。するとすこし後に今度は山田が「そういえば、(セルマ・リッターが出演した)『拾った女』をテレビで放映した時のセルマ・リッターの声の吹き替えが、たしか北林谷栄だったよ(笑)」。息の合ったコンビにより、知識の自在なキャッチボールが楽しめる。
ヒッチコックの影の使い方、スクリーン・プロセスの技術、伏線やストーリーテリングの巧さなど、これ一冊読めば、映画の演出法のイロハだって学ぶことができるのだ。二人にはこの調子で、もっともっといろんな映画について語り合って本にしてもらいたい。黒澤明編なんてのも、読んでみたいと思うのだ。