平山夢明は、グロテスクな作風で鳴らしてきた、ホラー小説界の旗手である。彼は、非ホラー・マニアの読者層にも、短篇「独白するユニバーサル横メルカトル」で推理作家協会賞短編賞を獲ったことと、それを収録した短篇集『独白するユニバーサル横メルカトル』(光文社)で、同年末の《このミステリーがすごい!》の国内1位となったことをもって強くその存在を印象付けた。
しかし、『独白するユニバーサル横メルカトル』は、賞賛の声も当然多かった一方で、かなり激しい毀誉褒貶を呼んでしまう。
実際にそのような感想が「最も多かった」のかはわからない。しかし、連続殺人者の所有する地図が一人称を務める小説が、従来のミステリ・ファンが思う「ミステリ」とかけ離れていたであろうことは想像に難くない。さらに、あの短篇集に収録された作品はいずれも、かなりグロテスクだったり、超現実的な設定が施されたりしており、生理的に受け付けない人が出て来たり違和感を覚える人が出て来ても不思議はなかったのだ。同書をミステリと認めない人や、《このミステリーがすごい!》で『独白するユニバーサル横メルカトル』に投票した人物(私もその一人だが)に対する批判を、少なくともネット上では何度も見かけたし、書店員たちの中には年末恒例の《このミス》棚を作る際に、ストーリーが残虐なこの本が売れるかどうか不安に駆られた人もいたようである。
残念なのは、同書を批判した意見の多くが、作品が「自分の考えるミステリ」像に合致していなかったことや、強烈なグロテスクさやバイオレンス性に気をとられるあまり、『独白するユニバーサル横メルカトル』全体に横溢していた、底抜けの虚しさと深刻な哀しさを見逃している(または、読み取れているが言及していないことが多い)と思われたことである。あの短篇集がミステリであったか、年間通して一番面白かったか、自分の生理的嫌悪のセンサーに引っかかるかどうかはさておいて、作品の肝をまったくスルーしてしまうのは――そう、あまりにも勿体ない。
その『独白するユニバーサル横メルカトル』から3年。平山夢明はよりミステリ成分を多く用いた長篇小説を上梓した。それがこの『ダイナー』である。謎解き要素こそ微弱だが、本書では超自然的要素が排され、極めて上質のノワールあるいはクライム・ノベルに仕上がっているのだ。
舞台となるのは、タイトルどおりダイナー、つまり定食屋だ。ただしこのダイナー《キャンティーン》には、殺し屋しかやって来ない。この店は、付近の犯罪組織が合意して設立した店で、一般客は全くやって来ないのだ。雇われマスターを勤めるのは、自身以前殺し屋であったボンベロ。寡黙な彼は、ちょっとしたことで異様な本性を剥き出しにする殺人者たちに、少しも怯まずハンバーガー主体の食事と良質な酒を提供し続けている……。
本書の主人公は、この《キャンティーン》にウェイトレスとして「買われた」女性オオバカナコ三十歳である。「買われた」は「雇われた」の誤記ではなく、本当に人身売買でその身を買われたのである。カナコはこれまで真剣に生きて来なかった女だが、犯罪にはかかわって来なかった。しかし三十万円という報酬に釣られ怪しげなバイトに応募したところ、案の定犯罪に巻き込まれて、その身を売り出されることになったのだ。
その後のあらすじ紹介は、作者自身のあとがきを一部引いて始めよう。
「そこでは最も軽視されるのがウェイトレスである彼女の命、死ねば取っ替え引っ替え新しいウェイトレスを連れてくればいいと嘯くマスターのもと、彼女は始めこそ嵐のようなカルチャーショックとギャップに翻弄されますが、徐々に自己のアイデンティティを掴んでいく……」
定食屋という舞台柄か、血みどろスプラッタ趣味はいつもに比べて抑え気味だ(それでも残酷な殺され方をした死体がゴロゴロ転がるんですけどね)。その代わり、主人公の心理の動きがより詳しくクローズアップされる。
中心に据えられるのは、カナコと、マスターであるボンベロや、店の飼い犬、一部の客との交流の醸成である。カナコは最初、恐怖心・対抗心や不信感に包まれている。それは確かに最初のうちは仕方がない。ボンベロはカナコのことを、代替のきく店の部品程度にしか考えておらず、少しでも意に染まないことをしたら殺すと明言し、事実彼女は殺されそうになる。しかしカナコはここで起死回生の一撃――ボンベロが組織のボスから託された、1億円以上もする超高級ウォッカのボトルを隠蔽する――を放ち、とりあえず身の安全を確保するのだ。ボスが《キャンティーン》で会食を催すまでの期間限定のものではあるが。
物語が本当に始まるのはこれ以降である。顔面を含めて身体中傷だらけで、なぜかボンベロにまともなスフレを作ってもらえないスキン。見た目は完全に少年のキッド。そして裏社会には不似合いな(とカナコが思う)美女・炎眉。そして病院から退院して来る、ボンベロに飼われている凶暴なブルドッグの菊千代。時間とともに、カナコは彼らの秘密と精神を知り、やがてボンベロの過去もおぼろげなからわかってくるのだ。そして最後には、犯罪組織にまつわる過去のいきさつが暴かれ、物語はカタストロフを迎える。
彼らの多くは、物語から消えていく。彼らはいずれも、その生き様からしていずれは裏社会の闇に沈まざるを得なかったように描かれ、たとえ作品中で死ぬシーンが出て来たとしても、それは実にあっさりと描かれる。感傷的な愁嘆場はないと言ってよい。しかし逆説的に、だからこそ余計に胸に染みる何かがある。
ラスト近くで、カナコはこう述懐する。
「わたしはあの店で変わった。それが良かったのか悪かったのか答えは出ていないけれど、前より獰猛になれたことは気に入っている」
これはタフな成長に他ならない(作者自身があとがきで明言しているので間違いない)。本書に通底するのは、先述のとおり強い哀しみと虚無感だが、しかし同じぐらい強く、人間を信頼し肯定している。むろん能天気に前を向いて進もうという作品ではなく、後ろを向いたまま命を落とさざるを得なかった人物も多いのだが、それでもなお、本書は人間そのものには、最後の最後で否定的ではない立場をとることになる。本書が最後に発するメッセージは、いたく胸に響いたことを告白しておきたい。
平山夢明は、グロテスクで残酷な、怖い話を書くだけの作家ではなく、登場人物と物語に救いをもたらしてきた作家でもある。『ダイナー』は、いつもに比べれば残虐度を抑えることで、より一層そのことを明白に(ホラー・マニアではない読者にもわかりやすく)打ち出している。広く、強くおすすめたい傑作である。