今回は口調がちょっと熊谷守一に似てしまいますが、だいぶ前にぼくのライブを聞きに来てくださったお坊さんが、ライブの後ぼくにこんなことを言っていました。「昔大阪で友部さんのライブに行ったんですが、あまりにもよく間違えるのです。それでぼくは、ああ、こんなのでもいいんだ、と思い、自分でも歌い始めたのです。」ギターもものすごくヘタだと思ったそうです。ぼくが本屋で『へたも絵のうち』という題の本を見つけたとき、迷わず買って帰ったのはこんなことがあったからかもしれません。
ヘタウマという言葉があるけど、ぼくのはただのヘタなのです。ヘタを利用したうまさではありません。でも熊谷守一の絵はウマイ。ヘタに見えるところがあるとすれば、その絵の未完のところなんだとこの本を読んでわかりました。ヘタに終わっているのではなく、まだ途中なのです。その途中という動きが、絵を見ている人の命の途中に触れるのかもしれません。
この本は、昭和46年6月14日から7月12日まで『私の履歴書』という題で、29回に渡って日本経済新聞に掲載されたときの文章だそうです。そのときすでに91歳。朝は18歳年下の奥さんと囲碁を打ち、午後は昼寝をして、夕方から仕事にとりかかる、そういう日々です。運動をすると血管がつまる病気で、15年以上前から一歩も庭から外には出ないという生活。外を歩かないので足腰が弱り、家の中でも杖をつきます。人から「いま何をしたいか、何が望みか」と聞かれれば、「いのち」と答えます。老人がたまに「早く死にたい」と言っているのを聞きますが、熊谷守一は「もっと生きたいことは生きたい。みなさんにさよならするのはまだまだ、ごめん蒙りたい」と言っています。91歳だけど、熊谷守一は老人ではありません。そのまま現役で生きて、97歳で老衰でなくなりました。
子供の頃から絵が好きで、絵描きになりたかった熊谷守一ですが、いざなってみるとなかなか絵を描きません。描けばいろんな人から評価されるのに、その評価のために一生懸命になることはなかったのです。「別になまけようというわけではないのですが、絵を一心に描こうという気は起きない。好きは好きだが、ただ好きだということだけで、だからどうだというその先はないのです。」と語っています。
二十歳のときに東京美術学校、現在の東京芸大に入学します。同級生には青木繁がいて、先生は黒田清輝、藤島武二といった人たちでした。絵のうまい青木繁は先生や同級生を馬鹿にして、いつも嫌がらせのようなことばかりしていたけど、熊谷守一には友だちのように接したそうです。熊谷守一も黒田清輝の絵は評価していなかったけど、青木繁のような反抗的な態度は取らない。だから常日頃からとてもほめられたようです。黒田清輝の絵をいいとは思わない、ということで青木繁と熊谷守一は一致した意見を持っていたのに、二人は正反対の行動を取ります。世の中には自分と同じことを思っていても、全く違う行動を取る人がいるということなのでしょう。
日露戦争のときに美術学校を卒業して、熊谷守一は樺太調査団の一員になります。漁港風景だとか、海産物だとか、調査書につける絵を描くのが仕事でした。樺太に2年間いて、その後生母の死で岐阜県恵那郡の実家に戻ります。そしてそのまま東京には6年間戻りませんでした。実家では毎日馬を乗り回したり、日傭といって、材木を水に浮かべて運ぶ仕事をしました。水に浮かんだ丸太に乗って、たくさんの材木を羊のように筏の組める下流まで運ぶのです。秋の彼岸から春の彼岸までの仕事なので、真冬に水に落ちれば凍傷になるし、かなり危ない仕事だったようです。それを2年続けてやりとげた熊谷守一は運動神経のいい人だったのでしょう。学生の頃はテニスに熱中し、乗馬もうまかったようです。
実家に戻っていた6年間では、絵はほんの数枚しか描かなかったそうです。だけど絵を中断したわけではなかった。ぼくは熊谷守一の絵を見ていると、輪郭の太い線は生活の線と同じなのだと思えてきます。樺太に行ったり、馬に乗ったり、丸太に乗って川を下ったりしたことが、針金のように硬い線になっていったのです。暮らしの中での不器用な線は、絵画では生命線です。だから岐阜の山の中にいたときも、熊谷守一はずっと画家でした。
ここからは自分のことですが、独身の頃ぼくは一日中歌のことばかり考えていました。歌のことばかり考えていて、休むということを知りませんでした。ぼくを邪魔するものが一つもなかったので、ずっと歌のことばかり考えていたら、おしまいには頭が疲れ果ててしまいました。その頃ぼくの邪魔をしてくれる人に出会いました。その人と結婚をして、やがて子供が生まれれば、歌のことだけ考えているわけにはいかなくなります。ぼくは邪魔を受け入れるようになりました。中断されて他のことをしていると、行き詰っていた歌の打開策がわかります。仕事を中断されることはいいことだと思えるようになりました。
朝起きてご飯を食べ、囲碁をして、昼寝をして、それから絵を描いて、という年をとってからの熊谷守一の一日は、樺太に行ったり、丸太に乗ったりしながら絵を描いてきた長い時間の縮小版のように思えます。何年もかけた長い一日を生きた人は、年をとって一日の中で何年もの時間を生きるのです。「誰が相手をしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分に暮らせます。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます。監獄に入って、いちばん楽々と生きていける人間は、広い世の中で、この私かもしれません。」というこの本の最後の言葉は、そういうことなのかな、と思いました。
熊谷守一 画家。1880年、岐阜県恵那郡付知村(現中津川市付知町)に生まれる。1900年、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に入学。同級生に青木繁。1910年、実母の死を機に故郷に帰り、6年を過ごす。その後、再び上京して第3回二科会展に出品。1930年代より墨絵を描き始め、晩年書も書くようになる。1932年、豊島区長崎町(現千早)に移り住み、生涯にわたりここで生活。1940年代より、輪郭と平面による独特なスタイルの油絵になる。1964年代には日本各地でも数多く個展が開かれるようになる。1967年、文化勲章を辞退。1977年、97歳で死去。