周囲の宝塚歌劇ファンを眺めていて、自分もファンになれたら楽しいかも、と、ときに思わないでもないのですが、本格的にそっち方面に足を踏み入れるのがためらわれてきた一因は、「タカラヅカ」をめぐるあまりにも複雑なコミュニケーションのルールとコードでした。
数年前、「今やっている『ベルばら』を見るなら、お奨めはとうドレときりカル」というようなアドバイスを人から受けて、いちおう昔の宝塚について論文を書いたこともある研究者の端くれとしては、「すみません。『ベルばら』以下がわからないので、もうちょっとご説明を…」などとも言い出しづらく、なんとなく受け流してしまったこともありましたが、今回改めて調べてみて、「とうドレ」=「元星組トップスター安蘭けい(愛称とうこ)の演じるアンドレ」、「きりカル」=「次期月組トップスター霧矢大夢(愛称きりやん)の演じるオスカル」のことであったか、と、ようやく合点がいった次第。
宝塚の舞台に出ている総勢200名以上の人々には、全員「芸名」だけではなく「愛称」があって、その「芸名」-「愛称」と、さらに「役名」をシャッフルしたところから、それぞれのパーソナリティが立ち上がってくるらしく、ついでに、各人が属する「組」には「花月雪星宙」の5つがあってそれぞれに独自の持ち味と歴史があり、それとは別に「専科」というものもあって……。そういった約束事の数々を踏まえたところで、ようやく本格的にタカラヅカを満喫することができるらしい。……のですが、この敷居はなかなか高く、気楽にひょいとまたいでみるわけにもいかない感があります。
「複雑怪奇な約束事の体系」という、高い敷居の前で躊躇するタカラヅカ初心者としては、やはりガイドブックが欲しくなるところですが、これはという一冊がなかなか見つからない。「きりカルコムカルかしカルミズカルゆひカル……」の類の暗号が錯綜するディープなファン向け書籍か、質量共にそれなりに充実してはいても、別の意味で敷居の高いアカデミックな研究書は多数あるとしても、本書ならびに最近文庫化された『宝塚読本』(ヅカドクホン、と読みます)のようなスタンスで書かれた一般人向けの解説書は意外になく、その意味で、これはやはり貴重な1冊かと思います。
最初の「男がタカラヅカを観る10のメリット」の章で、「人脈が広がる」「右脳が鍛えられる」といった実利的メリットが列挙されているくだりは、どうも苦しいんじゃないかという気もしないでもなく、「研究会後の飲み会で、『やおいでキレイになる!』『2ちゃんねるで東大合格!』という新書でひともうけ、というバカ話が定期的に出たものだが……」という院生時代の記憶がふと脳裏をかすめもします。とはいえ、そこさえクリアしてしまえば、それ以降の、ファンが宝塚歌劇に惹きつけられるポイント(第2章)、組織マネジメント論(第3章)、舞台の見所(第6章)に関する記述などは、あくまでもファンの目線から、宝塚歌劇団の組織・人・作品・上演-鑑賞文化を把握したうえで、要点を整理し、平易な言葉で外部の読者に向けて解説するというスタンスで書かれており、現在のタカラヅカの不思議さ面白さのエッセンスを噛み砕いて伝えてくれます。ときに主観と客観のバランスが危うくなるあたりは、愛と情熱ゆえの味わい深さ、といっておきましょう。
門外漢にとってはなかなか計り知れないところのある「組」システムとは何か。大劇場公演では総勢80人に及ぶ舞台上のハデな面々の、どこをどんなふうに見れば面白いのか。はたまた、すぐに完売してしまう人気公演のチケットを入手するには、といった解説部分もありがたいのですが、やはり第2章の、タカラヅカ固有のファン文化についての分析に説得力を感じます。
ファンは「恋する乙女」として贔屓スターに熱い視線を送るばかりか、「育てゲー」すなわち育成シミュレーションゲーム感覚で、下級生時代からの成長と出世のプロセスに参加し、いつかは必ず訪れる贔屓の退団の日を迎えて、しばし燃え尽きた後で、また新しいスターに出会って、ファンとしての再生を体験する。それが本書の名づけるところの「死と再生のプロセス」であり、そこからひとたびファンになった者の人生を丸ごと巻き込んでの「無限ループ」がくり広げられる、とのこと。この「死と再生のプロセス」は、「役名-芸名-愛称」から構築されるスターのパーソナリティ、組内の序列-昇進制度や、私設ファンクラブ制度などに代表される独特のファン文化など、はたから見れば複雑怪奇なシステムに支えられてこそ、否が応でも盛り上がるのかもしれません。