柴田宵曲は、独学で正岡子規、松尾芭蕉などを学び研究した在野の人で、三田村鳶魚の口述筆記をしたことでも知られている。メモを取らないで、その場では耳を傾けるだけ、翌日には見事な文章に仕上げて来たと言われている。ホトトギス社で編集に携わりながら、俳句を中心にして、夏目漱石や芥川龍之介を丁寧に読み続けた。また、書物、読書、出版については、森銑三との共著『書物』(岩波文庫)で、その碩学ぶりを披露していた。柴田宵曲の文章に気品があるのは、深く広い知識を有しながら語るのはほんの少し、そういったところからきているのではないか。
柴田宵曲の文業は、全八巻の『柴田宵曲文集』(小澤書店)にまとめられている。この文集は残念ながら絶版になってしまったが、柴田宵曲の文章が今読めないかといえばそんなことはなく、文庫も含めて数多く読むことができる。これは考えれば異例中の異例。例えば、『幕末の武家』(青蛙房)『明治の話題』『綺談異聞辞典』『明治風物誌』『妖異博物館』(すべてちくま学芸文庫)などで、柴田宵曲の仕事がこんなに読めるようになるとは、驚きであり、うれしいことでもある。『古句を観る』『芭門の人々』を先駆けて出版した岩波書店の英断に感謝したい。
雑誌「ノーサイド」の特集に、読書名人伝というのがあって、私は座右に置いて、ちょっとしたときに読むのを楽しみにしている。もちろんその名人のなかに柴田宵曲がいて、解説は『柴田宵曲文集』をまとめた小澤書店の長谷川郁夫である。そこで紹介されている柴田宵曲は、例えば次のようなもので、私はとても魅力を感じた。
【宵曲にとって、読むことは、文字通り書く(写す)ことであった。開成中学を一年の二学期で退学したのち、上野の図書館に通って読書生活を始める。句作は尋常四年の頃から新聞、雑誌に投稿していた。】
書き写すことについては、『書物』のなかでも触れられていた。写本など、現代では忘れられた読書法ではあるが、自分の気に入った文章や書物を書き写してみると、また別の面が現れるかも知れない。私も近々実行したいと思っている。
さて、柴田宵曲の最新刊『漱石覚え書』である。この文庫には、昭和三十八年に古書通信社から出た同名の書に加えて、「漱石覚え書補篇」が入っている。ちなみに、このなかの二編は柴田宵曲文集未収録である。さらに「文学・東京散歩」まで収められているのだから素晴らしい文庫化である。編者の小出昌洋氏に感謝したい。中心となる内容は、夏目漱石のこと、その周辺の人たちのこと、その著作についてのコラム集で、私は読みながら、戸板康二の名作『ちょっといい話』のような趣きを感じた。漱石に関するまことに細かい観察は、その手紙や日記を深く読み込んだ人ならではのもので、そうだったのか、と何回うなずいたことかわからない。例えば、
【明治四十二年中の「漱石全集」の断片に
◯洋傘屋の看板。ポスト、烟草屋ノ暖簾、勉強屋の看板。小包郵便車。電柱。風船玉。あか暖簾半襟。
と並べて書いたところがある。皆赤いものばかりである。これが「それから」の最後に於て世の中が真赤になるという際に使われた。】
私はこれだけで、『それから』を読み返したくなった。宵曲は先の文に続けて、「勉強堂というのは小川町と駿河台下との間にある書店で、よく学生の入っている店であったが、大正の震災後遂になくなった。」と説明している。確か、『それから』の最後の場面に、この勉強堂のことは使われなかったのでないか。このちょっとした説明がいかに大切で魅力あることか、計り知れない。
夏目漱石以外では、寺田寅彦や芥川龍之介の話が興味深い。寺田寅彦の絶品ともいえる作品「団栗」(文庫/ちくま日本文学 34 寺田寅彦に収録)に触れたところなども、短い文章ではあるが、そこから広がる世界は広い。私は本をそっと机に置き、「団栗」の世界を思い出した。寺田寅彦が亡くした奥さんのことを書いた文章なのだが、この「団栗」、日本語で書かれた文章の頂点のひとつだと私は考えている。これは余談になるが、中谷宇吉郎に、その「団栗」を読み解いたエッセイがあるが、それもまた見事なものであった。
芥川龍之介はあるとき漱石に乱作を戒められたという。その漱石のことばがよかった。漱石は、「君はまだ年が若いから、そういう危険などは考えていまい。それを僕が君の代りに考えて見るとすればだね」と言って微笑したそうである。漱石がいかに芥川龍之介を大事にしていたかがわかる物言いではないか。ただ、柴田宵曲はこの話をこの言葉で終わらせていない。芥川が尊敬していた漱石の訓戒に必ずしも忠実に従わなかったことを挙げ、創作というものの悲しむべき業なのでは、と締めくくっている。
柴田宵曲作品については、他作品の書評も収めていますので、どうぞお楽しみください。。
『随筆集 団扇の画』 レビュワー/小玉節郎 書評を読む
『明治風物誌』 レビュワー/小玉節郎 書評を読む
『妖異博物館』 レビュワー/小玉節郎 書評を読む